「ふつうに生きるということ」
ほぼ日にアーカイブされている「吉本隆明の183講演」にある「ふつうに生きるということ」(A182)を聞いて思ったこと。1回目。
偉大と称される人は実は日常生活をまともに送れる人ではない、と昔から言われてきた。
「あの人はえらいと言われているけど、家のなかではまったく違う」というのは、まったく珍しくないエピソードだ。「そうなんですか!」などと驚くのはフリでしかない。
ふつうの人や生き方に価値があるとされるのは、偉大とされる人への評価が往々にして過剰評価であるからでもある。
偉大な人の私生活までもが世の中に広く知られるようになった今、伝説的な偉人の成立自身が難しくなってきている。それとともに、ふつうの人の価値の高さがぼんやりしてきた。
さて、ふつうの人は消去法で定義づけられるところが多い。
有名であってはいけない。社会的な影響力があり過ぎてはいけない。金持ちはだめだが、貧困の極みにあってもふつうの人とは言われない。ソーシャルメディアでフォロワーが多過ぎるのもよくない。
旅は控え生活圏が狭い方がいい。移動距離が長く、沢山の人を知っている刺激的な生活はふつうではない。
手や足はよく動かす日常の生活が平凡で変化に乏しいにも関わらず、人のことがよく分かっている。人とはこういうことで心が動くものだ、と身体で分かっている一点で敬意をうける。
視界を妨げるさまざまに邪魔なものを取り去っていくと、ふつうの生き方が見えてくる。
ふつう風にみえるところにある偽悪は注意した方がいいだろうなぁ。
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