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人は読み書きはできなくても何とかなるが、数えられないとサバイバルできない。

読書会ノート

ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』第7章 貨幣ー貨幣のはたらきの規則若干、紙幣と信用道具

貨幣と信用(手形のような疑似貨幣)は技術であり、おのずと繁殖し永続化する技術である。個人は読み書きはできなくても何とかなるが、数えられないとサバイバルできない。話す言語と同じだ。

社会構造が複雑化すると、貨幣の技術も複雑化する。これも言語と同じで、貨幣自体のロジックで変貌し、生き残っていく。金属貨幣の価値も金銀銅の産出量だけに左右されるのではなく、結局において紙幣やその他の信用貨幣と並び、貨幣という世界のロジックで決まってくるのである。

これまでに話題にあげた技術(火薬や活字など)と同様、貨幣技術も需要が何らかの方向を示したとき、執拗な試行錯誤の末に社会に主役として登場してきたのであった。金属貨幣でトラブルが生じたとき、なんらかの処置が必要で、証書類が対策として講じられたのである。つまり、金属貨幣と信用の関係でみるなら、信用は臨機応変な手段としてあり、そのために銀行もできた。

さらに言えば、金属貨幣、補助貨幣(紙幣)、信用用具(証券)の三者をどう接近させ、どう統合させるかを近代資本主義の問題とし、経済学者は貨幣を経済交換の中性的要素、あるいはヴェールとみなすのだった。

注意すべきは、補助貨幣や信用用具は中世以降の産物ではないとの事実である。紀元前20世紀にはバビロンで手形があったし、古代ギリシャやヘレニズム時代のエジプトも同じ。古代ローマ、イスラム商人、紀元前9世紀の中国、すべて例外はない。つまり13世紀ヨーロッパにおける証券は、発見ではなく、再発見であったのだ。

金属貨幣に戻ると、金は王侯貴族、大商人、教会で流通し、銀は市場で使われ、銅は貧乏人の貨幣であった。そのなかで金と銀の産出と流通量は、常に争う存在だった。13-16世紀までは銀が高く評価されていた。だが、1550年以降はアメリカ大陸の銀山が新しい技術を利用し、銀の過剰供給が生まれた。

さて、農民などの貧乏人がどれほど貨幣を手にしていたのか?

1751年のナポリの数字として「我が国の4分の3を占める農民は、その消費量の10分の1は現金で決済しない」とガリア―二(18世紀のイタリアの外交官・経済学者)は語っていた。

当時のナポリ王国の取引の半数が流動中の貨幣ストックにより決済された。その残りは貨幣に関わりにくい、農民や現物支給(脂肉・塩・塩漬け肉・ぶどう酒・油)をうける労働者である。まったく貨幣経済に参与しないわけではないが、その量たるや「手から口へ」ゆく間に消費されてしまうのである。

物々交換および自給自足の経済が市場経済と対等の立場をとっていたのだ。

<分かったこと>

物々交換や自給自足は、現代、ポジティブにも捉えられる傾向にある。しかし、この章を読んでいて、農民や労働者は貨幣経済や信用の世界に憧れていたのではないかと想像する。

このあたりがよく分からない。憧れが一過性のものだったのか、かなり根強いものだったのか。さらにいえば、貨幣の扱いに限らず、経済的な格差を人はどれほどに「仕方のないもの」として受け入れるのか、社会的な理不尽としてとるのか、その幅が近代になるにつれて可視化して社会的な衝突がおこると言ってよいものなのか?

写真:ローの銀行紙幣 パリ国立図書館(写真原版 Giraudon)201ページ



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