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『新ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』で書いたこと、書ききれなかったこと。

今月28日に『新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義』が出版されます。服飾史研究家の中野香織さんと共に書いた本です。書名の通り、新しいラグジュアリーを多角的に論じたものです。皆さんが想像しやすい19世紀の欧州に誕生したブランドが、20世紀後半以降に肥大化(つまりは大衆化)したことで、今、ラグジュアリーの新しい意味が問われていることを報告したものです。表紙はこんな具合です。ラグジュアリーとは、文化創造を伴うソーシャルイノベーションとの立場をとっています。

ラグジュアリーカバー最終Sv


ラグジュアリーの歴史(欧州と日本)、ロマン主義、ラグジュアリーの新しい潮流、ラグジュアリーマネジメント教育、アートや人文学、サステナビリティ、新しい宇宙観・・・と盛りだくさんです。目次はアマゾンをご覧ください。

ここでは書いたこともさることながら、書ききれなかったこともメモしておきます。

校了したのは2月24日以降ですが、原稿を書き終えたのは昨年末です。2月24日を境にして激変した世界を目の前にして、いろいろと考えざるをえませんでした。書いたことを書き変える必要は感じませんでしたが、本を読む方が原稿の時には意図していなかった読み方をするかもしれない、と思ったのです。後半、その点を「書ききれなかったこと」として記しておきます。

「はじめに」で何を書いたか?

経済的に発展した国において、イケていないものが減ってきました。イケアや無印良品のような企業の商品が家庭やオフィスにかなり普及しています。値段がそれほど高くなく、デザインもそれなりのレベルです。人々は案外高くて無粋な、つまりは野暮ったい - もっと卑近な表現を使えばダサいものに手を出す危険性がなくなったのです。

他方、高価で美しくなかなか手が出しにくかったモノも、手軽に手にしやすいセカンドラインが増えて様子が変わりました。値段、デザイン、品質のどれをとってもあまり文句をつけどころがない。

この状況を批判したらバチがあたりそうです。

しかしながら、何か突出した「願い 」が表現されたような、インパクトのあるモノやコトに触れたい。そういう思いを抱くことはありませんか?

たとえ、何か他のモノを買うのを我慢しても、「絶対、これが欲しい。これなら深く愛して長く持ちたい」と思える。手にした瞬間、「あれっ?今、みんなが話しているサステナビリティは、こういうことだったの?」と思わず独り言がでてしまう  。言葉を知っていてもしっかりと理解できていなかったことが、身体全体で納得できる。そのような経験を、実は欲していませんか?
<中略>
できるだけ多くの人が美しいものや美味しいものを同等に享受できる社会が、私たちの理想であり目標だと信じてきました。適度な低価格帯でそうしたモノやコトを提供することが称えられたのです。最終消費財におけるイノベーションとは「大衆化」の実現であるとみられてきました。だが実現してみると、やや索漠とした風景が目の前に広がっていたのです。

なぜ、ここで「大衆化」と括弧に入れたのか。実は目指すべきは「民主化」であったのではないかとの反省があるからです。ビジネス文脈における英語のdemocratizationが示す範囲は、その大衆化の側面ばかりに力が注がれ、民主化への熟慮が足りなかったのではないかと考えるからです。あるいは2つを混同してきたか、外面が良い民主化を装い大衆化を推し進めてきました。

大衆化は、上下のあるなかで上にあるものが下におりてきて広く普及することです。民主化は、上下そのものをなくし、かつ公平な機会のもと新しい価値を人々の創造意欲によってつくりだすことです。

つまり大衆化された先は行き止まりです。どこにこの先、前進すれば良いか、その方向が見えません。願いをもちようがないのです。一方、民主化には壁がありません。常に新しい領域が水平に拡大するイメージです。仮に拡大が停止しても、再起動するメカニズムがシステムのなかに埋め込まれてあります。なぜなら、民主化とは「学び」と「自由な発意」がプロセスのなかに含まれているからです。そこで私たちは歩む向きを変え、自然環境から社会システムに至るまで、リアルに日常世界に展開されるだろう「新しい風景」を探しに行けるのです。

以上が「はじめに」の趣旨です。昨年末には書き終えていたものです。2月24日以降の世界をみて、「はじめに」の最後に以下を追記することにしました。2年前に訳したソーシャルイノベーションの第一人者、エツィオ・マンズィーニ『日々の政治』の冒頭です。ぼくたちは、どのような状況で幸せを感じるのか?それをマンズィーニは的確に描写しています。

ぼくが住んでいる村の近く、葡萄園と森林の真っただ中にある魅力的な空き地には、樹齢の長いトキワガシの木がある。ある夏の夕方、日が沈み始めるころ、大きなアーチをつくっている枝の下に、本当にさまざまな人たちが佇んでいる。地面にまで届きそうな枝が、葉の繁る部屋を見事につくる。幹の近く、空間の真ん中に活動的なグループが集まり、3人の音楽家の今風の伴奏で「オデッセイア」の一節を吟じている。その後、ワインと食べ物が供される。日が沈みゆく。幸福を分け合う瞬間。たとえ……

たとえ、そのまったく同じ時刻にどこかで人々が逃げまどっていたとしても。ある者たちはスナイパーによって撃たれる。またある者たちは飢餓で死んでいく。そういったことをぼくたち全員が知っていても、だ。他の人たちには、輪になって集まるべき木がない。そもそも「他の人たち」に分類される、それら多数の人たちは、あのような衝撃的な状況下にいない。だが、同時に、あのような幸福の瞬間を生きることができない。なぜなら彼らにはそのような木がなく、あるいはその木を認識することができないから。それでは、なぜ、ぼくの住んでいる村のような光景がいまだに存在するのか?

ぼくが話したいのは、そのような特別な時がどう到来するか、だ。その時とは、皆が周囲の人たちも幸福だからという理由だけで幸せを感じ、自身に満足し、世界を嬉しく思う時である。

旧来型のラグジュアリーは選別された人たちのための排他的な性格がありました。が、新しいラグジュアリーではインクルーシブな性格をもちます。やや距離の離れている場所で苦難があることは十分に承知しながらも、周囲の人たちが幸せであるなら、自らも幸せであると思えることを目指すのです。関係価値が強調されるわけです。そうしたコミュニティが数々と生まれることを願い、考え、動いていくのです。

何に我々は注視すると良いのか?

社会をビジネスのなかに入れ込むことが盛んに語られますが、ラグジュアリーはその先端をいきます。自ら渦に入り込む。政治についても、です。

そこで注視するべき4つのポイントを挙げました。以下です。

1.歴史の切り取り方
2.異文化の理解の仕方と異文化要素の使い方
3.事業だけでなく文化と政治を同じ風景のなかに溶け込ませる
4.自らの文化アイデンティティの選択

順番にコメントをつけていきます。

1. 長い時間の文化遺産をコアにコンセプトをつくればいいわけではなく、どういう角度で歴史を見るか、または見せるか、が課題になります。以前書いた「老舗=高級ブランドの固定観念を壊すーショパン国際コンクールで優勝者が弾いたピアノ」が例になります。

2. 異文化の問題は、ラグジュアリーの認知は文化圏によって異なるとの点が第一にあがり、第二に文化の盗用と批判されない、あるいは批判された場合にどう向き合うか、ということです。よく「他の文化に対するリスペクトが不足していたのでしょう」と指摘する人がいます。客観的にいうと、リスペクトしているかどうか、それは受け手にしか分からないのです。まず、文化アイデンティティに感度をあげることです。「文化の盗用とは何か?について考えてみたー文化アイデンティティにまつわるトラブル」が参考になります。

3. 文化と政治を同じ風景に溶け込ませるについては、今、あえてここで強調するまでもないでしょう。

4. 文化アイデンティティの選択については、上記の文化盗用の記事でも触れていますが、Forbes JAPANに書いた「自分の文化は選べるのか? デザインにおけるローカルのあり方とは」を参照してください。生まれた場所や育った場所に縛られることなく、自分が自分と思える文化アイデンティティを選択する大切さを指摘しています。

世界が分断した今、どのような異文化理解のアプローチが有効か?

ここからが本では書いていない「読み方」です。

2月24日以降、完全に世界は分断されました。ある特定の国が「友好国」「非友好国」と分けたリストが、多くの人々に分断をいや応なしに認識させました。そして、文化アイデンティティが議論の対象になっています。

実のところ、グローバル市場と称するものは以前からも危うい定義でした。が、これだけ広大な地域がお互いに「向こう側」に分類されてしまったため、フラットに境がないことを想定とした市場は、中長期的であっても存在が難しいと考えるのが妥当でしょう。

1989年以降、この「分断が消滅した姿」をグローバル市場と呼びました。凸凹があるのは当然ながら、凸凹の下半分、つまりは共通部分ー多くは経済的合理であり、それに文化的な普遍性ーに目を向けることで、差異部分は後回しにできると希望的観測をもったのです。

しかし、(その兆候は何年も前からあったにせよ)先月から、実はさまざまなところで無理や歪を隠していたからとの現実を見せられたわけです。いや、前述したように、それらの無理や歪に気づいていても、「差異は共通点によって乗り越えられる」との信念が勝っていた。

前述した、この数年前から頻出する「文化の盗用」との表現は、上記の信念が通用しづらくなっている証拠だと思います。この表現が過剰反応の表れであるのは確かながら、現象として多くのことを物語っています。英国のマンチェスターメトロポリタン大学でファッション文化史を教えるベンジャミン・ワイルドへのインタビュー記事「ハンガリーのブランドに学ぶ、異文化を正しく「適用」する方法」で書いたことが参考になります。

そして、先月末以降の事態でより強調すべき点が、「異なることを、どのようにして認識し、それをどう評価するか?」ではないかと思います。共通点を最初にもってくるのではなく、差異点を最初に浮彫にし、それをお互いが評価できる関係をつくってから、関係補強のために共通点を活用するとの順番に変える ー 分断された世界で新しい関係を築き直すためにアプローチだと考えます。

まだまだ、書き足りないですが、とりあえずメモとして。






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