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「意味のイノベーション」におけるデザインディスコース論で気になること。

井登さん

井登さんが立命館大学の「デザイン科学研究」Vol1に書かれた「デザインディスコース概念の理論的考察による「意味のイノベーション」論の再解釈」を読み、その後、井登さんとZoomで話したことを、ここにメモしておきます(アカデミックな舞台とはほど遠いところで物申すのは申し訳ないですが・・・)。

さて、昨年、この論文を書かれている最中、いくつかの点についてぼくの意見を申し上げたわけですが、ぼくは、その後、デザインディスコースについて以下のnoteを書きました。山縣さん宛ですが、ここに書いたことの一部を井登さんに話した記憶があります。

以上を踏まえて、今回、論文を拝見して気になったことがありました。大きくいって2つありました。

ディスコースを遠景で捉えるか?近景で捉えるか?

一点目。ベルガンティが『デザイン・ドリブン・イノベーション』から『突破するデザイン(Overcrowded)』に至るまでのおよそ10年間のなかで、デザインディスコースの位置を変化させている。

後者でディスコースを相対的に低い位置においた(井登さんの表現は「希薄化」)のは、「意味のイノベーション」にデザインディスコースが要との主張と「矛盾するのではないか?」との井登さんのご指摘についてです。

昨年書いたように、前著でディスコースを遠景でみていたベルガンティが、10年後には近景でみているとの変化が要因であるとみて、この描写の差は「発展である」とぼくは解釈していました。

みるべき対象がミラノ周辺の中小企業のオーナーではなく、地域を問わないよりサイズの大きな企業をもカバーするにあたり、前者では暗黙知的な扱いですんだ全体的なプロセスを、後者では細かく部分に分けて明示する必要があったからです(または、前者が実態分析に軸足があり、後者は新しい考え方の提示に寄っている、との背景もあるでしょう)。

ある限定されたローカルをみるのに「遠景」といい、多数の地域を広くみることを「近景」というのは逆ではないか?と思われるかもしれません。ぼくが指すのは、何らか「新しい方向にピンとくる」時点からビジネスアウトプットまでを眺めることを遠景といい、そのなかの一部をズームアップしてみるのを近景と言っています。だから近景においては、個人の思考や2人あるいは少人数の議論のプロセスがより前面に出て、外部の人との知的交流である「解釈者ラボ」のプロセスが、やや周辺視野に入っているように見えてしまうわけですね。

井登さんは、『デザインドリブンイノベーション』と『突破するデザイン』を比較的に同じ距離からみて、それぞれにあるディスコースを別々に論じているから不整合であると、つまりは「矛盾」であると判断するのではないか、と想像しました。

一方、ぼくは二つは距離の違うところから論じていると見ているので、フォーカスするポイントは当然異なり、かつ10年のベルガンティの実績が、考え方と方法をより洗練させた結果、叙述と表現が変化していると理解していたのです。

しかし、井登さんの論文にある本文と注釈も読むと、ぼくが昨年指摘したポイントをあえて落としているわけではないのが分かります。だから、さらにぼくには「矛盾」という言葉が腑に落ちない。それでこの意図をZoomで会った時に伺ったら、井登さんは「戦略的に矛盾という言葉を使いました」と答えてくれました。

「矛盾をつく」といった方が議論を呼びやすい。そう、井登さんは判断したのでしょう。それは確かにそういうこともあるでしょう。それでは、どういう議論に誘導するに際して、この「矛盾」という言葉が活きるのか?これをぼくは考えます。

ローカライズはメインセオリーに何を返球するのか?

論文を読んで気になった2つ目は、この論文が『突破するデザイン』で構築したものにどう貢献するか?を考えているのかどうかです。井登さんの論文を読んだ限り、日本に適用させるための話が、極めてローカルでテクニカルなところにとどまりそうな印象があります。

ぼくが昨年書いたnoteでは、日本では「インサイドアウト」の起点である「1人で考える」が、日本の大企業の風土に合わない、あるいは個人で確信をもつとの習慣に乏しいなか、「意味のイノベーション」を採用するに障壁となっているとの弁解の多さになっていると指摘しました。

日本でたびたび目につくのは、「1人で考える」の部分を「1人で抽象的なことを考える」と解釈する人の存在です。ベルガンティも、1人で何もインプットのないところで抽象的思考を要求するのは厳しく、事前のインプットと具体的な問題解決から思考をスタートせよと話しているのに、禅的なシーンを想定してそこから始めないといけないと誤解をしている。

なおかつ、「1人が苦手」論は日本文化のステレオタイプに責任を押し付けているように見えるのです。

とすると、「1人で考える」のが苦手な日本文化を基盤とした「意味のイノベーション」方法を探るのではなく、「1人で考える」を禅的シーンに誤読する癖(これは「哲学する」を身体と切り離して袋小路に入る傾向を連想してしまいます)こそに、壊すべきバイアスがあるのではないか、とぼくは思うのです。

ベルガンティは「意味のイノベーション」のプロセスについて、文化的要因により導入が不可能になることはないはずと考えています。が、一方で、自己主張が弱く、同時に他人の話に耳を傾ける人が多い日本では、最初の踏み出しではスローだが、人と協調しながら進むプロセスに入れば強みがでるから、全体ではプラマイゼロの世界ではないかとも、ぼくと話したことがあります。

ぼくは「意味のイノベーション」にある普遍性と井登さんの文化的障害の解明が、他国での普及にも同様に貢献していただきたいです。即ち、上記の一つ目の「矛盾」との表現も普遍性の向上に役立つものであって欲しいし、2つ目のローカリゼーションも、ローカリゼーションの手法として普遍的に意味あるものであって欲しいです。

以上、簡単なメモです。また気づいた点があれば書きますし、何らかのフィードバックがnoteで頂けるなら嬉しいです。




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