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日本のビジネスパーソンが 「メイド・イン・イタリー」 から学べること

先週、晶文社から出版した本について、出版社より了解をいただき、終章をここで公開します。本の成り立ちや趣旨は、こちらのあとがきをご覧ください(一部、表示やレイアウトは、note用に変更しています)。

「メイド・イン・イタリー」の経営戦略を知るのは、日本の企業人にとって、どのような意義があるのだろうかと考えながら、ここまで書いてきた。少量の高級商品と大量の低価格商品に二分化した世界において、量と価格で中間領域の市場をふたたび作っていくことが重要であり、それにあたって「メイド・イン・イタリー」の考え方は有効ではないかと考えている。また、いわゆるラグジュアリーブランドと呼ばれるカテゴリーへの入り方の示唆にもなるのではないか、とも期待している。最終章では、日本のビジネスパーソン、特に中小企業の経営者が注目するとよい点を強調しておきたい。以下の四つに絞られるだろう。

①中規模量産へのアプローチ
②あえて「余白」を残すこと
③「好き」「美しい」「美味しい」を出発点とすること
④機能やテクノロジーとの向き合い方

順を追って要点を記していく。

①中規模量産へのアプローチ
イタリアと日本では想定している量産のスケールが違う。日本で「それを量産というのか?」と思われるボリュームであっても、イタリアでは量産という言葉を使う。新明解国語辞典によれば、量産は「大量生産の略」とあり、流れ作業により一時にたくさんの製品を作ること、とある。

一方、イタリア語では「 produzione in serie 」が量産にあたる。一続きに作る、という意味だ。大量生産を指す場合もあるが、基本的には一度限りのプロダクトではないことを想定し、そう長くない一定の時間を使って、同じ製品をまとまって作ることだ。大量生産は「produzione in massa 」との表現を使う。英語のmass production である。これはある時間内で同じ製品を大量に生産することだ。

前述の表現から窺い知れる日本とイタリアの差異は、イタリアでは量産が量をあまり規定していない、という点である。量産といえば、大企業の大量生産を真っ先に連想する日本のビジネス風土との違いがある。また機械加工やベルトコンベアーを使った組み立てなど、製品の種類によってさまざまな条件があるが、イタリアではこのプロセスが自動化されているかどうか、手作業の部分が少ないといった項目が、量産の定義のなかで日本ほど優先順位が
高くないと推測できる。さらにいえば、量産という言葉に多様な解釈が入る余地が大きい。すなわち、同じ製品を一定量作るロジックが柔軟である。したがって中規模量産がイタリアでは視野に入りやすい。

このような視点の違いを知ることが、日本のビジネスパーソンの視界を広げる。ことに、量産品のカスタマイズやパーソナライズが課題になっている現在、量のサイズ感や適度な価格帯の量産品を考える際のヒントになる。

当然ながら、大量生産の数を減らしていけば中規模量産になる。これは言ってみれば、「質の向上」と「価格の上昇」を同時に図ることを意味する。量の減少で製品一つあたりの生産コストが上昇するだけでなく、価格のアップに見合ったより価値あるものにしなければならない。しかしながら、数量を減らした分、質を上げるというのは極めて難易度が高い。製品の質感からコンセプトの質に至るまで広いレンジを対象とし、それらの関係を調整するのは新しい商品企画をするのに等しい。

一方、質を維持したまま数量を上げていくのは、主に生産効率がテーマになる。簡単であるとはいわないが、大から小より、小から大の方がやりやすい。この小から大へのロジックのつくり方を本気で考え、試行錯誤を重ねてきたのがイタリアの中小企業である。職人的なプロセスを重んじる「アルティジャナーレ」と、審美眼を満たすレベルのデザイン(小さなデザイン)のなかに、経営戦略的な方向性(大きなデザイン)を入れ込み、「意味のイノベーション」を仕掛ける。それらの工程を進めるのに厳密さをあまり求めない。柔軟性を示す「エラスティコ」が、ここで発揮する。

そうしたアプローチは、工業製品だけでなくスローフードやレッジョ・エミリア教育というまったく別の分野にも共通して窺える。

②あえて「余白」を残すこと
アルティジャナーレが市場で有利な立場を得るのに有効であるのは、高めの価格をつけやすいだけではない。生産者の顔を見えやすくするからだ。どこのどういう人間が作っているかが見える。人間中心設計(HCD)やユーザー・エクスペリエンス(UX)が製品開発の方法として企業の間に普及すればするほど、逆にその人間観やユーザー理解が問われることになり、「本
当に分かってるの?」と突っ込まれる可能性が増える。

また、ユーザーインタビューや観察など定性的な分析を経ていても、それらのプロセス自体が透けて見えてしまうと、ユーザーは白けてしまう。生産者の顔が見えるのと、確立されたプロセスが見えるのでは違うのだ。生産者の顔が見えるのが良い、というのは農産品などの安全性を引き合いによくいわれる。同様に、工業量産品でも、生産者の顔が見える方が良い。「この人たちなら、良い製品を作ってくれるだろう」という信頼をもたれやすく、分析的なデータがなくても「私の気がつかない範囲を超えた」とユーザーに確信させる何かがある。

ファッション分野で「エシカルファッション」と称し、倫理が今さらながらに重視されるのは、これまで同分野のサプライチェーンがあまりに不透明すぎ、「生産者の顔を隠してきた」との反省が根底にあるからだろう。

ここで重要なのは、「ユーザーに確信させる何か?」をあえて説明しないことである。むしろ、余白を作って、ユーザーに解釈をゆだねる方がいい。ここを言語化しないでミステリーゾーンとして構築するのが、イタリアのビジネスパーソンの強みである。「ミステリーゾーンを残さないで、どうしてブランドが作れるのか?」、イタリアのビジネスパーソンはこう考えるのである。

日本のビジネスパーソンも、ここまで言える覚悟をもつのが良い、と私は考えている。ここまで言えて初めて、「アルティジャナーレ」の生産方法や開発方式を「独善的」ではなく、「正当性」としてアピールできる。イタリアの企業人の正当性への確信の持ち方のありようこそが、実は日本のビジネスパーソンが学ぶべき筆頭にある。

イタリアの企業人は、どのような企業サイズであろうと、自分たちの今ここで下す判断がこの世でベストであると確信する「近道」を知っているのだ。世界には評価の高い経営の教科書が山ほどにある。しかしながら、それらのすべてを使いこなせない以上、自らが下す判断が「自分にとってのベスト」であることを自覚している。

日本のビジネスパーソンの弱い点はここである。いつもどこかに正解があるはずだと、その正解探しや権威探しに延々と時間とエネルギーを使う。イタリアの企業人なら70‐80%の確信がもてれば前進する妥当性があるはずと考えるところを、日本の企業人は残りの20-30%を埋めるにはどうすれば良いかに時間とエネルギーを使いすぎてしまう。

しかし、残りの部分はデータによるのではなく、直感的な状況判断によらなければどうしても埋まらない性格の部分である。よって数字や論理で100%のデータが揃わないことに後ろめたさを感じないことが大切だ。そうした思考に慣れた中小企業にこそ強みがある。

③「好き」「美しい」「美味しい」を出発点とすること
イタリア企業の強みである「意味のイノベーション」は、前述した確信の持ち方をベースにする。意味は数量化できないのである。しかし、この意味の圧倒的な強さをどう発揮するか、どう他者に受け入れてもらうか、そのための工夫を日本のビジネスパーソンはさらに研究するとよいと思う。その肝は、案外みなさんがよく知っていることだ。

それは、好きであるかどうか、直観的にカッコイイと思うかどうか、そしてそれらを支持するかどうか、である。「審美性」は確信を得るための出発点なのである。自らを突き動かすものがなんであるかを知っている時、自らの判断に確信を持つことができる。逆に、この審美性がないと、「表面上、論理的に聞こえる雑音」に惑わされる。

さらに付け加えると、「好き」や「美しい」は個人的な判断である。チームワークで議論して決めることではない。それらは他者より劣っているとか優れているとの指標にはのらず、判断や選択の基準が個人に依っているのを当たり前とする。オーナーシップは、判断した人自身が実感できる。当然ながら、マンテーロ・セータ社で紹介したように、個々の審美眼だけでビジネスの方針が決まるわけではないが、方針を決める根底に個々のメンバーに揺るぎない判断軸が一つあると、プロジェクトが前進しやすい。

これがイタリア企業のデザイン戦略の特徴とまたつながる。デザインは、現在、モノの色・カタチのスタイリングだけでなく、企業や社会、コミュニティなど、対象を大きくしていることは本書の最初で述べた。便宜上、スタイリングを「小さなデザイン」、対象を広くとったものを「大きなデザイン」と私は名付けているが、特に大きなデザインは、米英などのアングロサクソン系やスカンジナビア諸国で実践されていると喧伝されている。しかし、これらの国でのマイナス点は、往々にして大きなデザインと小さなデザインの間に距離があることだ。大きなデザインの成果物が目に見えるものとして、美的にいただけないことが少なくない。どんなに立派なグランドコンセプトであっても、「結果が美しくないものを評価できるか?」との疑問がでる。

この点、イタリア企業では小さなデザインと大きなデザインの距離が近く、小さなデザインが大きなデザインの真髄を上手く物語っていることが多い。好きになってもらいやすい美しいモノこそが、人の頭と心を動かすことをよく知っている。食の世界にいけば、「プロセスがオーガニックでもエシカルでも、不味けりゃダメじゃん」という反応が自然にでる。こういう判断軸があるため、意味のイノベーションを得意としやすいのである。

日本人は工業製品にせよ料理にせよ、小さなデザインで力を発揮してきた。つまりは意味のイノベーションの重要さを分かり、それを得意とする文化土壌がある国といえる。とするならば、日本の人たちが、意味のイノベーションを手の内に入れようとするのは、とても理にかなっていると私は思う。


④機能やテクノロジーとの向き合い方
エットーレ・ソットサス(1917‐2007)というイタリア人デザイナーがいた。1960年代、タイプライターで有名なオリヴェッティの全盛期を支えた工業デザイナーである。巨匠と称するにふさわしい。その彼が1980年代前半、齢70代後半の頃、次のようなメモを残していた。


「オリヴェッティの仕事とメンフィスの仕事のどちらが簡単だったか、と聞かれることがある。オリヴェッティの仕事は簡単だったが、メンフィスはとても難しかった」。


メンフィスとは彼が1980年代に主宰したグループだ。世界のデザイン界に大きな影響を与え、ポストモダンを先導した記念碑的存在である。機能的とは程遠いカラフルな家具などをデザインし、一時、イタリアデザインの象徴といわれた。そのソットサスが、機能を考えるオリヴェッティの製品デザインは容易だったが、新しい意味を提示するメンフィスの活動は苦労したというのだ。

以下もソットサスのメモだ。

女性に花をプレゼントするに際し、花の機能など考えるだろうか。

ソットサスはエンジニアリング的合理性自体を低く見ているわけではない。しかし、意味を問うことこそに「意味がある」と考えている。

ひるがえって、日本は高度経済成長期からはじまり、長らく「テクノロジー先進国」と自他ともに認めていた。そしてあらゆる問題はテクノロジーで解決できる、と信じたい人が多かった。もちろん、テクノロジーが多くの問題の解決に貢献するのは確実だ。しかし、残念なことに、日本はテクノロジー先進国と宣伝できるポジションを失いつつある。それにもかかわらず、テクノロジーが対象とする問題だけに焦点を合わせようとする。

他方、テクノロジーの「本当の問題」への解決能力には限界がある。そのことを理解しはじめている人も徐々に増えている。たとえば、AIが人間の知性を凌駕し仕事を奪うといったスキャンダラスな煽りがあるが、AIと人間との棲み分けの話にすぎない。人間が主でありAIが従であるのは、論議するに値しない前提である。そう認識する人がじょじょに増えている、ということだ。

イタリアという国は先端テクノロジーに依存しない産業をじっくりと育ててきた。もちろん、先端テクノロジーに依存しなくてもやっていける、と政府や財界人が語っているわけではない。ある分野ではそうしたテクノロジーで世界を引っ張らないといけないと自覚している。しかし肝心なのは、先端のテクノロジーをもたない中小企業の企業人は、それに依存しないビジネスのあり方を懸命に考えてきた。これが衣食住といったライフスタイル分野で存
在感をつくるに至った。その際のベースに「人間」や「社会」への深い理解がある。それによって技術と人間の乖離を埋めることに注力し、グローバルに受け入れられる製品を開発してきた。

世界を俯瞰して見て、ライフスタイル分野に置けるラグジュアリーブランドは、フランスとイタリアが圧倒的にリードしている。時計でスイスが加わる程度だ。ドイツは、この地図のなかにあまり入ってこない。日本にも茶道の道具などに高額帯のモノがあるが、グローバル市場と呼ぶようなものはない。

今、世界中のビジネスパーソンたちは「どのようにしたらモノやサービスを高く売れるようにできるか?」に関心がある。その際に19世紀にあった貴族やブルジュアの文化に根ざした商品だから高額である、とのセオリーはあまり参考にならない。いかにも短い期間で新しいコンテクストを市場につくり、意味のイノベーションを成功させるか、この一点に視線が注がれている。しかも、環境や倫理などの点で、社会的責任を全うすることが期待されている。

ラグジュアリー市場の新しい購買層、すなわち若手世代はラグジュアリーの企業に社会的責任をより果たすことを求めている。当然、そうしたコストがすでに価格に含まれていると考えているのだ。

日本の企業、特に製造業にかかわる人たちは、一度テクノロジーを土俵外において発想する術をイタリアのビジネスから習うと良いだろう。順序としては、まずビジョンとコンセプトの構築に時間をかけ、どうしても必要なテクノロジーをそのコンセプトのうえに載せる、ということだ。新しいテクノロジーが新しいヒントを大いに提供してくれると承知したうえで、一度テクノロジーを視野の外においてみるのだ。これが日本の経済の新しい方向を作る一つの道筋である、と私は考えている。





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