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久々に音楽を聞いて号泣。Pinegrove-Old Friendsを聞いて自分の過去がフラッシュバックした話。

6年前に友達をなくした。
約20年生きてるけど、後半部分は大抵の競争に負けて無力感を感じながら生きてきた。
最近は良いこともあったけど、元の根性が負け犬なので素直に喜べないというか、自分の褒め方を忘れている。

pinegroveのold friendsを聞いてるとそれまでの人生がフラッシュバックする。22時に彼らのライブ映像を見て号泣した。そして、自分の中で未だに尾を引いている人生をこうやって思った。

今まで失ったものは自分への期待だろう。
何度か失敗して、自分の心に落ちこぼれという焼き印を押しまくった。その対価に「人の弱みがわかるという強さを手に入れた」なんて言ってみたいけど、私は生憎そこまでできた人間でもない。
そんなこんなで、大きな期待を捨てたら何かに失望することもなくなった。正直楽だったし、これ以上自分に失望しなきゃならないのは嫌だった。他人との付き合いでもそんな感じのアプローチになった。

それよりももっと大きいものは間違いなく彼女だと思う。
彼女に感謝を伝えられなかったこと、彼女を傷つけたことを謝っていないこと、彼女が何も言わずにこの世を去ったこと。私はこの後悔にも似た感情を処理できずにいる。

まあこんな風に振り返って言語化できたところで、6年前の葬式中に思った「彼女が死んでも地球は回り続けるし、自分は生活し続けないと社会に取り残される」ということが実証されて自分の中で確信できただけだ。(彼女には申し訳ないけれど。)
それは6年前と同じように厭世的だけど、その一方で6年前よりも希望にあふれているとも思っている。
つまり、私はこれからも相変わらず歩くたびに恥をかいてその度に自分に落ちこぼれの焼き印を押すと思う。けど、もう会えない人への後悔(これも恐らく彼女が最後ではないし増える一方だろうけど。)に比べたらなんてことない。
だから、「悲しみを引き裂きながら歩いていく」しかないのだ。生きていれば何か大きな悲しみがやってきてそれを引き裂くために歩かないといけないのだ。
恥を恐れて歩くのをやめてしまえば、もっと大きなものに押しつぶされることになる。ハードモードすぎるけど、この事実を認識して受け止めると自分の生き方が肯定されたように感じる。

こう考えると、一つ一つの出来事を近眼で見ていくと辛すぎるけど、人生トータルでみればあるべきことがあるべきタイミングで起きたと思えて、かなりうまくいっているように見える。
何よりも、潰されずに生き残ってるし、なんだかんだ超元気に生きている。
これがきっと祝福された人生なんだろうって思う。

そして歩いているとたまに幸せがある。
それを見逃さないように。
悲しみを伴いながら、幸せを見つけてそれを手放しながら、歩いていく。
同じ幸せを伴って生きていければ、それは奇跡だと思って。
それが今までの焼き印だらけの自分が教えてくれる自分なりの生き方だと思う。


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