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出会いの哲学

大学時代、一般教養科目で「出会いの哲学」という講義があり、親友が取っていた。最後の授業は、近隣にある名門ホテルのスイートルームを貸し切り、夜通し議論の持ち寄りパーティ?らしく、そのイベント性に興味をそそられ、選択しておけばよかったと当時思ったりした。あれから、長が~い歳月を経たが、思い返すに「出会い」の神業を痛感する。

「出会う」といっても濃度は様々で、統計学によれば、僅かでも接点を持つ人は30,000人、学校や仕事で一緒になる人3,000人、ある程度親しく会話する人300人、友達と呼べるのは30人、親友は3人らしい。世界の総人口が80億人だから、接点をもつ人の割合でも0.00004%でしかなく、なんと希少な確率であろう。

そう考えると偶然の巡り合いには、何かの深遠な意味が込められていると言わざるを得ない。人里離れた田舎ではなく、大都会の喧騒と群衆の中にいても出会いの数は必ずしも増えはしない。通りすがりのあの方と知り合いたいなとか、一方的に願って叶うものではなく、見えない糸がつながって初めて邂逅が生まるのでしょう。

私自身を顧みると、映画や舞台の場面を各々彩るに相応しい役者が、不思議にそろうかのようであった。ただ、奇妙なことに過ぎ去ったシリーズの俳優たちはエピソードをつむぎ終えると、再度出てくることは意外に少なく、私の意識に宿る記憶の中に生き続けていく。別れる際の英語で、I hope our paths will cross again(また、ご縁があるといいですね)という丁寧なフレーズがあるが、まさに再会の人付き合いは、貴重な引き寄せの関係性で、魂の共鳴(シンクロニシティ)による賜物といえる。

「時間は存在しない」や「世界は関係でできている」の著書で有名な物理学者カルロ・ロヴェッリは「この世は物質ではなく出来事の集まりで、人生は物語である」のように述べている。直観を研ぎ澄ませないと感知しえないが、相互に干渉しあう波動が相性をもたらし、奇跡的な「縁起」が織りなされている。

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