あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #3


#3 酔いつぶれた見知らぬ女の人のこと


大学受験の塾の帰り道、改札前で女の人がうずくまって嘔吐しているのを見た。

見たところまだ若い。酔いつぶれているらしかった。なぜか目を引いたのは、その人が高校生のわたしから見たらかなり着飾っていたからかもしれない。

起毛地のダッフルコート、高いヒール、短いスカート、マニキュアの塗ってある爪、のすこし先に転がるラインストーンが貼られた携帯、そのぜんぶが濃淡様々なピンク色。

女の人は半分意識がないらしく、ときどき立ち上がろうとしては、自分がさっき吐いたところに倒れこんでしまう。近くを通っただけですえたにおいがした。

通行人たちもにおいで気づくのか、一瞬彼女に視線を送るが、みな足を止めずに改札を抜けていく。そのたびに、自動改札のピッ、という音がする。
ピンクのコートの裾が吐瀉物で濡れている。帰宅ラッシュで往来が多く、ピッ、という音がやまない。

あれが、なにかいやなことがあってお酒を飲んだのだったら、あるいは誰かに不本意にお酒を飲まされたのだったらたまらないな、と思った。

それで、駅員に「具合の悪そうな人がいますよ」とだけ言いにいったけれど、「酔っ払って寝てるだけですよ」といわれ、相手にしてもらえなかった。

わたし一人でどうにかしなくては、と焦り、おそるおそるティッシュを渡そうと試みても、目の焦点さえあわない状態で、受け取ってもらえなかった。

結局、そのままその人をおいて帰ることにした。改札を通ったとき、ピッ、という音がして、そこで猛烈にいやになった。振り向いたらもうその人が見えなかったことも、ティッシュを握ったままであることもくやしくて、歯を食いしばって帰った。


その翌日、信頼する塾の先生にそのことを話した。わたしの悩むポイントをよく知っている先生は、「大変だったね」と前置きした上で、「僕だったら自業自得だと思ってしまう」と答えた。そのときは「そんなに冷たい見方でいいんだろうか」と思ったものの、大学に入り、勝手に飲んで勝手に酔いつぶれる人を見慣れてくると、先生のいうことがわかってきた感じもした。

だが、一方で、ほんとうにそうだろうか、と問いつづけることもやめられなかった。あの女の人があそこで倒れていたことは、自業自得なのだろうか。ほんとうに?

わたしはそのまま、この些細な記憶を二十三歳まで持ってきてしまった。



ところで最近、親しい友だちが『嫌われる勇気』に影響を受けはじめたので、わたしはたいへん虫の居所がわるい。いや、相手にしてみればそんな風にいわれる筋合いはないのもわかっているのだが、わるいものはわるい。本そのもののいい悪いではもちろんないし、基本的にわたしは友だちが何を信じていようが何に励まされようが構わないと思っているタチなのだが、今回ばかりは困っている。

まあ、もともと、浅学なりに、内容自体もあまり肌に合わないのは事実だ。
とくに、「目的論」として語られる、

「怒るのは、怒ることによって起きる結果を得るため」
「泣くのは、泣くことによって起きる結果を得るため」

と、いう論調が好きじゃない。情報としての正誤は一旦横に置いておいてもらうとして、生理的に違和感がある。違和感の出所は、それが他人の行動や感情をジャッジするのに使いやすそうすぎる、というところにあると思う。


わたしはとてもよく泣く。
怒られて泣き、勝手に失敗して泣き、勝手に共感して泣き、うれしくて泣く。それが、「泣くことによって起こる結果(加減してもらえるとか、優しく見えるとか)のために泣いている」といわれたらまあ、そうなのかもしれない。

だが、それを他人に、「泣けば許されると思って泣いているんだろう」といわれたら、違う! と思うだろう。そして、たとえば「泣けば許されると思っているんだろう」というふうに、他人の行動を安易に意味づけしてわかった気になる、という行為を、わたしは何度も見てきたように思う。

「目的論」が、(そもそもは自省を促すためのものであったとしても)他者に対するそういう姿勢を増長するように思え、わたしはあまり好きになれないのだ。

仮に、わたしに泣く目的があったとして、それはとても複雑で、他人どころかわたし自身にも明確にはわからないことのほうが多い。本当に泣き止みたいのに泣き止めないことが多くて苦しむのはそのためだ。(それは、泣き止まないことで起こる結果のためだ……といわれそうだけど)

そう、わたしにはわたし自身のことがそこまでよくわからない。

わたしという装置はとても入り組んでいて、かつ支離滅裂で、ありえないタイミングで好きな人に連続着信を入れたり、さっきまで行くつもりだった場所をさらっと飛ばして終点まで電車に乗りつづけたりする。「なんでそうしたか」なんて、済んだあとにいくら考えても憶測の域を出ない、という体感がある。

誰よりもわたしに手を焼いているのはわたしで、そこに誰かが、「◯◯するのは◯◯するためだ」などと、目的だろうがなんだろうが、シンプルな単一の回路を見出そうとしても、どうしたって的外れになるだろう。それがわかるなら、わたしだって知りたい。

『嫌われる勇気』に影響を受けはじめた友だちは、わたしのよい相談相手で、わたしの言動や感情に理由をつけたり、ジャッジしようとしないところがよかった。それが一転目的論っぽくなってしまったらいやだなあ、と思い、いまひとつ虫の居所をわるくしているのである。

ようは、簡単に「自業自得だ」といわれてしまうことが、わたしはとても恐いのだ。



先日、就職活動のために社長面接を受けているとき、「向坂さんが思っているよりウチは厳しいですよ」というようなことを言われた。

高校や大学を中退したり、新卒で辞めたりしてドロップアウトしてしまった若者の就労支援を事業としている会社だ。ウェブサイトには、「再生」「やり直せる」という単語が並んでいる。

「ドロップアウトした人たちと関わったことはありますか? ああいう人たちはね、理想ばっかり高くて、口先ではいろいろ言うわりに、全然行動が伴わないんです。だから、最初に無理矢理にでも努力させるところから始めないといけなくて、大きい声も出すし、厳しい事も言うし、そんな甘いもんじゃないですよ」

「それでやめてしまう人はいないんですか?」と聞くと、

「だいたい、40パーセントしか残らないです。でもウチは、絶対結果出すって約束してるんで、まずは本当にやりたいのか? という意思確認から始めるんですよ。常に試されてるんです。途中でやめる奴は、結局本当にやりたいという気持ちがなかったってことですよね。わかりますかね? そういうこと」

わからないです、といいたい気持ちをおさえて、「じゃあ、6割の人にとっては、御社のいうこととは違って、社会はやり直しのきかないものなんですね」と答えた。

「本当にやりたければ、自ずと努力するだろう」

というのはいうまでもなく決めつけで、過剰な期待に近い。そこまではいいとしても、それが

「努力できないということは、本当にやりたいわけではないのだろう」

に転じるときが怖い。そんなふうに言ってしまえば、仮に自分が努力できないことに果てしなく苦しんでいる人がいても、簡単にその人を看過することができてしまう。



わたしは、いま、あの酔っ払いの女の人のことを、高校のころほど悲惨にとらえてはいない。当時は「つらい目にあったであろう人をわたしは見捨ててしまったのだ」という慚愧の念で苦しんだが、いまはまあ、そうとも限らないだろう、と思っている。

ほとんどの場合翌日には家に帰れるだろうし、多少クリーニング代がかさんだかもしれないが、その愚痴をこぼす友だちくらいはいるだろう。そしてそもそも、自分で好き好んで酔いつぶれた可能性だって大いにある。もしそうだったら、わたしも胸を張って笑って、「まあ、自業自得だよ」ということができる。あの日だって、ティッシュを痛いほど握りしめて帰らずに済んだ。

でも、いまはなにより、わたしがそれを判断したくない、と思っている。

「どうせ好きで飲んだ酒だろう」といって考えるのをやめた途端、それは一瞬で冷酷さに転じる。6割の人が自分にはわかりえない理由であきらめていくのを、わかったふりして済ませてしまう冷酷さと同じだ。

働きたいのに就職の訓練を受けにいけない、目の前の勉強をはじめることができない、そういう日のことを、弱いわたしはたまたま、痛いほど知っている。

わたしたちはときにそういう、「幸せになりたい」と願っているとは到底思えない非論理的な暴挙に及ぶ。そして、その瞬間に周囲の助けの手がぱっと離れてしまうのを、わたしはたくさん見てきたと思う。でも、わたしもあなたも、自分が思っているよりずっと複雑な回路を抱えて暮らしている。


本当はなんのためで誰のせいか、なんか、誰にも、ずっと、わからないのかもしれない。そして、わからないままでも、別にいいのかもしれない。

だから、あなたが本当は好き好んで倒れていたとしても、それが逃れえない苦しみだったしても、また、もしかしたらその双方だったとしても、

あなたのことがまるきりわからないまま、それでもいつでも同様にティッシュを差し出せるわたしでいたいと願う。

                           (向坂くじら)

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