あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #2
#2 家が近かった女の子のこと
「セックス」という概念をはじめて知ったときのことを、みんな意外ともう覚えていないらしい。
中学生の後半、どうやらお互いが性知識を持っているな、ということが明らかになってからの二年くらいは、結構まわりとその話をしていた記憶がある。女子校だったからかもしれない。
『ちゃお』で知ったという人もいれば、いとこのお姉ちゃんが教えてくれたという人もいた。それがみんなだいたい二年以内に起こっているから、まだ目新しく刺激的なトピックスという感じがあった。 ところが、大人はめっきりそんな話をしなくなる。たまに話がそちらへ流れても、「気づいたら知ってた」などという。うそだ。絶対に一度は衝撃を受けたはず、けろっと忘れてしまっているだけなのだ。セックスの概念に慣れるのが早すぎる。できればみんなにずっとびっくりしていてほしいのに……
というわけで、わたしはいまだにその話を聞くのが好きなので、もし覚えていたら教えてほしい。
さて、当のわたしは中学生のころ、その話になると嘘をつくことにしていた。
だいたい森絵都の『カラフル』という小説の話をする。援助交際する女の子が出てきて、はじめて「セックス」という文字を見て驚いた……と、いうのは本当なのだけど、半分はうそだ。
本当は、本で見るよりも前、一度だけ友だちに聞いたことがある。小学六年生のときのことだ。
マリンというクラスメイトがいた。お母さんがフィリピンかどこかの人で、苗字がカタカナだった。昔は漢字の苗字だったけれど親が離婚してカタカナになった、と本人が話していた。
マリンは身体が大きく、走るのが遅い。しょっちゅう宿題を忘れていた。どこの友だちグループにも属していないのに、妙に人懐こくて、誰にでもくっついてくる。それが疎ましがられて、ときどき邪険にされる。そういうときも、常にちょっとへらへら笑っていた。
「家が近い」という理由で、わたしもときどきマリンといっしょにいた。マリンの家の庭にあけびが生えると、近所の公園でみんなで食べた。
「マリンって"セックス"したことあるんだって」 という噂をわたしに吹きこんだのは、同じく家が近い子のうちのひとりだった。そして、わたしがはじめてその概念と出会ったのがこのときだった。 日頃からマリンを小馬鹿にしている子だった。なにも知らないなりに、その子のひそひそ声に笑いがこもっているのがわかった。
「なに? それ」 「知らないの? 男の人と女の人が『かんっ』ってするんだよ。マリンは大人の男の人とよくするって言ってたよ」
会話はほとんどそれだけだったが、わたしは焦った。言った子はおそらく痛烈なリークのつもりだったのだと思うが、もはやマリンのどうこうはどうでもよかった。知ったこと、そして知らなかったことの双方に猛烈に焦った。 本を読むのが好きで、かつインターネットと出会うのが早かったぶん、当時のわたしは同学年の子に知識で負けた経験が少なかった。なので、どうやら重大な行為、そしてすごく咎められるらしい行為をじぶんが知らなかった、ということがショックだったのだった。
そして同時に、子どもの直感で、これは両親にしてはいけない話だ、というのもわかった。
いけないことを知ってしまった。でも、みんなわたしより先にそれを知っていた。
そして思い立つ。
いや、ちがう。みんなもまだ正確には知らない。 だって、マリンなんて、そんなことを、したことがあるのだ!
噂を流した子の思惑に反し、わたしはマリンをすこし尊敬するようになった。
マリンには癖があった。約束もしないのに放課後の公園にふらっと現れては、みんなをコンビニに連れていく。そして、大量のお小遣いを取りだして、みんなの言うままにおやつを買いあたえる。
いま思えば、あれは帰りの遅いマリンのお母さんが預けた夕飯代だったような気がする。そして、マリンの買ったアイスやらフランクフルトを食べるとき、みんな物陰であわてて食べきったのは、それがうすうす分かっていたからだったと思う。
わたしはいつも、チロルチョコを一個買ってもらい、みんながフランクフルトを食べ終わる速度にあわせて削るように食べた。マリンに気をつかうというより、漠然となにかを恐れていた。わたしが値札を見、チョコを選んでカゴに入れると、いちばんつまらなそうな顔をするのはマリンだった。
たった一度だけ、帰り道にマリンとふたりになった。 わたしはそわそわしていた。なんせ、あの程度の説明ではまるで釈然としていない。インターネットで調べる勇気もない。「セックス」のことを確かめられる相手はマリンだけだった。
その一方で、わたしはマリンにひどいやつだと思われるのがいやだった。陰口をいうようなやつと同じだと思われたくない、でも、聞き方によってはそう思われるであろうこともよくわかる。
「マリンってセックスしたことあるんでしょ?」
なんて最悪だ、誰でもその情報に含まれた嘲笑を読み取れる、でもそれしか思いつかない。わたしはマリンを尊敬する立場として、マリンと話したいのに! カラスが鳴き出すブランコの脇で、マリンをまじまじと眺めたのをよく覚えている。マリンはいつもやたらフリルのついたミニスカートを履いていた。わたしの知らないことを知っている女の子。大人の男の人とすることをしている女の子。
「からあげくんおごってあげようか?」
とマリンが言った。たしか脈絡はなかったと思う。
「いい。ごはんの前だもん」 「べつにいいじゃん」
マリンはじぶんの思うとおりにことが運ばないとわりと食い下がる。そういうところもみんなに面倒くさがられている一因だった。
「チーズ味がおいしいんだよ」 「いらないって……」
例の恐れを抱きながら断っているうちに、わたしは段々いらつきはじめた。ふだん、平気でマリンに百円も二百円も払わせたりマリンの悪い噂をわざと流したりするみんなのことを、いったい自分がどう思っているのか、自分でもよくわからなかった。
このとき自分が言ったことを思いだすと、いまでも息がつまる。
「そういうこともうやめたほうがいいよ。みんなマリンがおごるからマリンと仲良くしてるんだよ」
マリンは、ちょっと困った顔で、「そんなことないよー」と軽く言い返しただけだった。ただ、わたしの剣幕に負け、それ以上コンビニに誘うのはやめた。 翌日、マリンからはリボン柄のメモに書かれた「これからも友だちでいてね」みたいな手紙をもらい、わたしたちは何事もなかったかのように友だちに戻った。その日セックスについて聞きそこねたことを、わたしはとくに悔やまなかった。なぜかその日を境に、しばらく興味を失ってしまったのだった。 そして、『カラフル』を読んでその概念と再会するまでは、誰と話すときもまったく知らないふりをしつづけた。
小学校を卒業する直前、マリンは父方の実家に引きとられ、漢字の苗字に戻って卒業し、そのままどこか遠くへ引っ越していった。
マリンの住んでいた家はまだ近所にある。あけびの季節に前を通りかかるとつい、庭の木に実がなっているのを確認してしまう。
(向坂くじら)