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ガイタと私 - ああ素晴らしき Gaita Zuliana の世界

本文は、とあるZINEのために2021年に書いた文章をリライトしたものです。内容はエッセイで、約8000字あります。
単にガイタのプレイリストだけを聴きたい場合は、ページの一番下まで飛ぶことを推奨します。

はじめに

 Gaita Zuliana(ガイタ・スリアーナ。以下、単に「ガイタ」とする。)とは、3/4拍子と6/8拍子のミックスや、フーロやチャラスカといった楽器の使用を特徴とする、南米ベネズエラの伝統的なクリスマスシーズンの音楽である。
 この文章のテーマはガイタであるが、ガイタないしベネズエラ音楽の詳細については深く掘り下げない。詳しく知りたい方はエストゥディアンティーナ駒場(東大駒場キャンパスに拠点をおく日本で唯一の学生ベネズエラ音楽合奏団)のページなんかを参照してほしい。

 日本でガイタを聴くリスナーは非常に少数と思われるが、私はその中でも特に少数派の人間であると自負している。
 ガイタが好きな人というのは、そもそもラテンアメリカの音楽ファンである事が多い。ベネズエラに限らず南米の音楽が好きで、色々な国の音楽を聴く中で、他のベネズエラの音楽(ホローポなど)と並んで「ガイタも好き」という人が殆どのように思う。
 しかし私は「ガイタが好き」なのである。ラテンアメリカの音楽についてはさっぱり詳しくないし、ガイタ以外のベネズエラの音楽も、いまのところ興味関心がない。ただただ、ガイタだけが特別に好きであり、何の踏み台もなく一気にそこへアクセスしてしまったのである。

 なぜこうなったのか? ガイタに限らないが、ある音楽を好きになった時、その理由を論理的に説明することは非常に困難である。「ガイタと私」という関係性の中には、非常に様々な要素があり、その全てが並列であり、にもかかわらずお互いの要素が複雑に絡み合っている。
 ここから先は私の「自分語り」、よく言えばエッセイである。ベネズエラ音楽が何たるかを吸収できるような、大した文章ではないことを、予めここに記しておく。


その1 2003年(12歳)

 小学校5・6年生の担任だったH先生は、当時としてはインターネットに明るく、また生徒との関わり方においても他の教師とは一線を画していて、間違いなく私の人生に大きな影響を与えた人物の一人である。
 そんなH先生が教えてくれたのが、とあるインターネット上のBBSだった。そのBBSは北海道から沖縄まで様々な小学生が集まっており、普段は会話できない多様な「同級生」と交流できる場所だった。
 そのBBSで、一際輝いていたのが「リリ」というハンドルネームの女の子だった。とても明るくて性格が良く、私は彼女に恋をしていた。リリは歌が上手く(母親が歌手だと書いていた)、ときおり歌を録音してはBBSにアップしていた。彼女の十八番は「浜辺の歌」で、私はそれ以来この曲が大好きになった。

その2 2006年(15歳)

 私はこの頃、学校の学習机を一つの楽器として認識していた。

 学校の学習机には、天板の下に道具箱や教科書等を格納できる金属のフレームが付いている。居眠りの格好で天板に耳を付け、手で金属のフレームを弾くと、天然のプレートでリバーブレーションされた金属音が聴こえてくる。私はそのサウンドが非常に好きだった。
 学校の休み時間も、高校受験のために通っていた塾の休み時間も、机の天板に耳をつけては、金属のフレームをリズミカルに叩いていた。それを見た塾の同級生は、私に「民族」というあだ名をつけた。

その3 2009年(18歳)

 高校へ進学後、私は軟式野球部に入部した。野球は小学1年生から続けていたが、甲子園への執着というものは特に無く、趣味の音楽も大事にしたかったので、キツそうな硬式ではなく軟式の野球部を選択したのであった。
 軟式野球部は、学校のグラウンドを使えるのが週に2日のみ。それ以外の日は学校の周りを走るなど、グラウンド外での練習をしていた。
 当然ながら、バットの素振りもアスファルトの上でする。その時の私の密かな楽しみは、金属バットでアスファルトを擦り、カラカラという金属音を出すことだった。もちろん派手にやるとうるさいし、バットを傷つけることになるので控えめにだが、校舎のピロティに反響する金属音は思いのほか気持ちのよい音だった。


 この頃、私は平沢進の大ファンになった。平沢進が私の人生に与えた影響は甚大であり、後に『トロンプ・ロレイユ』という本も書いたほどであるが、ここでは極力ガイタに繋がりそうな話を抽出して書く。

 平沢進は書籍『音楽産業廃棄物』のインタビューにて「わたしの音楽と行動はすべてノイズを志向しているんです」という名言を残している。この言葉には、音楽産業という業界の中で「ノイズ」であり続けるという、平沢の活動に対するアティチュードが込められている。しかし当時の私は言葉を短絡的に捉え、音楽的な意味でのノイズ志向をピックアップするようになった。
 当時は既にYouTubeがあったので、インダストリアル系のノイズもいくつか聴いた。しかし、どちらかといえばホワイトノイズよりも、ある周波数にピークがある「金属音」が好きだった。そして、その金属音が「歌モノ」の中で鳴り響くことに、私は得も言われぬ快感を見出していた。
 平沢進は歌モノの中に金属音を取り入れるのが上手い。P-MODEL「OH MAMA!」や、平沢進ソロにおける「達人の山」、『SWITCHED-ON LOTUS』版の「Kingdom」など枚挙に暇がない。平沢進以外のアーティストでも、Tears For Fears「Shout」や、Suzanne Vega「Blood Makes Noise」など、金属音が入っている楽曲を見つけては、iPod Classicに入れる日々だった。

 また高校時代といえば、私がシンセサイザーとMTRを購入し、自宅録音を始めた時期である。当時の自分の楽曲に金属音が入っているのは、こうした影響によるところが大きい。

その4 2012年(21歳)

 バイト代の多くをCDの購入・レンタルに充てていた私にとって、通っていた大学の図書館は非常にありがたいものだった。『XTCソング・ストーリーズ』や『In The Court of King Crimson』など、当時読んだ分厚いアーティストの伝記本は、大半が図書館の蔵書だった。
 その中でも印象的だったのが、Spencer Bright著『ピーター・ガブリエル(正伝)』である。本書は生い立ちからアルバム『SO』辺りまでの出来事を、本人へのインタビューや関係者の証言を元に記述した評伝本である。

 ピーター・ガブリエルには数多くの名作があるが、その中でも3rdアルバム(通称『Melt』)は特筆すべき名盤だろう。アルバム全体のクオリティのみならず、ゲートリバーブという概念を産んだこと、Fairlight CMIが最初に使用されたアルバムであること、アフリカン・リズムを導入したこと、スティーヴ・リリーホワイトとヒュー・パジャムという黄金コンビの名声を高めたこと等、伝説に事欠かないアルバムだ。

 上記評伝本において、3rdアルバム制作時の過程を書いている部分があるので引用したい。なお、以下文章における「テクノロジーの目覚ましい進歩」や「このマシーン」はFairlight CMIを指している。

 ピーターの曲の作り方も変わりつつあった。コードやメロディの代わりに、はじめにリズムを発展させるようになったのだ。これは彼のこれからの成功を形作るのにひと役買った重要な変化であり、テクノロジーの目覚ましい進歩が弾みをつけていた。

 はじめの二枚のアルバムではピーターはリズムを工夫しないで、それよりは昔ながらの”キーボードの前に座ってコード・パターンを弾く”曲作りをしていた。このマシーンを手に入れてからはリズムを通して音楽を作るようになったんだ。これがその後の制作のインスピレーションになった。

 「ただリズムの上に曲をかぶせたっていう感じだね。リズムがなかったら、いつものようにコードやメロディをこむずかしくして自分の興味をかきたてるようにしていただろう(ピーター・ガブリエル)」

Spencer Bright著『ピーター・ガブリエル(正伝)』より抜粋

 この部分を読んだとき、私は死角から頭を殴られたような感覚に襲われた。というのも「コードやメロディをこむずかしくして自分の興味をかきたてる」というのが、まさに当時の自分の作曲手法だったからだ。
 私は直観的に、自分の「コードやメロディをこねくり回す」作曲法をいつか変えなければならず、そのためには新しいリズムが必要だということを悟った。しかし、それがどんなリズムなのかは全く分からず、結局は従来の作曲手法を継続するしかなかった。

その5 2015年(24歳)

 社会人となり、いわゆるシステムエンジニアとして働きはじめた私であったが、なんと覚えさせられた言語はCOBOL(!)である。平成生まれのCOBOLプログラマー、ここに爆誕!
 COBOLを使うぐらいなので、仕事内容も紙出力の帳票作成がメインであった。しかもその紙も、A4などの「カット紙」ではなく、ストックフォームと呼ばれる15インチ×11インチの連続帳票である。

 大規模処理で印刷に時間がかかる場合など、連帳プリンタの横で待つ時間がしばしばあった。連帳プリンタはとめどなく「カタカタカタ」と無機質なビートを刻む。
 私は中学生の頃から「民族」と言われた男である。ビートを刻まれたら、それに合わせてリズムを取りたくなるのが自然な行動であろう。周囲に誰も人がいないのを確認しては、連帳プリンタの金属筐体を軽く弾いていた。プリンタからは天然のプレートで、リバーブレーションされた金属音が聴こえてきた。

その6 2018年(27歳)

 2018年10月9日に、2013年ごろから地道に収集し続けた、90年代邦楽女性ソロアーティストのCDをまとめたWebディスクガイド『後追いGiRLPOP』をリリースした。

 (ディスクガイドの詳細は上記リンク先を参照してもらうとして)このGiRLPOPを掘る過程で、私は2つの特筆すべき出会いをした。

 1つはNORA NORA『Electric Lady』との出会いである。『後追いGiRLPOP』では、1987年~1997年の邦楽女性ソロならば「どんなものでも聴く」という方針を取っていた。日本を代表するサルサバンド、オルケスタ・デ・ラ・ルスのボーカリストであるNORAのソロ作を聴いたのも、とりあえずオンナだからという、非常に怒られそうな理由からだった。
 しかし、このアルバムは私の心を強く捉えた。当時、サルサの「サ」の字も分かっていなかった自分を打ち負かす、グルーヴに満ちた名盤であった。本作のプロデューサー:Sergio Georgeにハマり、関連作を掘りまくった時期もある(が、ここはガイタが話の主軸なので省略)。

 さて、このアルバム『Electric Lady』の中でも、特に私の心を捉えたのが「Como Sera?」という楽曲だった。この曲について調べていくと、実はカバー曲であり、原曲はベネズエラのバンド「Guaco(グアコ)」が1995年に発表したヒット曲だと分かった(『Electric Lady』の発売は1996年なので、わりとタイムリーなカバーである)。

 当時のグアコといえば、「Como Sera?」の作曲者であるJorge Luis Chachin(ホルヘ=ルイス・チャシン)の加入により、いわゆる第2次黄金期を迎えていた時期である。が、私がそれを知る(=グアコにハマる)のは、もう少し後のことだった。というのも「Como Sera?」についてはNORAのカバーが良すぎたので、当時の私には原曲がヌルく感じ、いまいちピンとこなかったのである。


 もう1つ『後追いGiRLPOP』がもたらしたのは、「麗麗」という歌手との出会いだった。彼女はもともと「張 麗華」(チョウ レイカ)として80年代から活動していた人物で、1992年に名義を「麗麗」に変更し、1枚だけオリジナル・アルバムをリリースしていた。
 本作は後追いGiRLPOPでレビューしていないが、私にとってそのアルバムの内容は最早どうでもよかった。そのアルバムのタイトルが『RIRI』であること、そして「麗麗」というアーティスト名は「リリ」と読むこと、それだけで十分だった。

麗麗(リリ)『RIRI』1992/12/21 TDCT-1019

あのBBSのリリさんのお母さんだと、私は気づいた。当時、H先生がBBSに、リリさんの母親が「麗麗」という歌手だと書き込んでいたのを、どういうわけか私は15年越しに思い出した。当時の私は麗麗を「レイレイ」と読んでおり、まさかそれが「リリ」だとは思いもよらなかったのである。
 急に「浜辺の歌」が聴きたくなった。リリさんが十八番にしていた、思い出の曲である。改めて聴いてみると、当時は全く気が付かなかったが、三拍子の楽曲だった(正式には6/8拍子ということになっているが、聴感上は3/4拍子に取ることも可能で、いわばミックスである)。そして本当に「昔のことぞ しのばるる」であった。

その7 2019年(28歳)

 前年末(2018年12月)にGuaco『Sin Peligro De Extinción』がリリースされたこと、そしてサブスクが一般的になり、本作へ気軽にアクセスできたことは、私にとって非常に幸運な出来事であった。

 本作はグアコが、実に24年ぶりに発表したガイタ・オンリーのアルバムである。アルバムレビューについては、上のnoteを参照してほしい。ここで述べたいのは、本作の何が、最初に私の耳に引っかかったのかである。
 それはズバリ、Charrasca Gaitera(チャラスカ)の音色だった。チャラスカはガイタで使われる独特のパーカッションで、簡易に表現するならば「金属ギロ」である。ただし、一般に金属ギロとしてイメージされる「メレンゲ・ギロ」とも異なり、鉄パイプに切り込みを入れたような外観をしている。

 いまでこそ私はチャラスカの存在を把握しているが、当時はこのアルバムから聴こえてくる金属音が、どんな楽器から発せられている音なのか全く分からなかった。もっと言えば、楽器なのかどうかすらも怪しかった。その時、私の脳裏に浮かんでいたのは「金属の棒をアスファルトにこすりつけている」ような音のイメージであり、それは奇しくも高校時代の金属バットの音色を連想させた。
 ガイタは基本的に「歌モノ」であり、その中で自由奔放に掻き鳴らされるチャラスカの音色に私は魅了された。今でも、なぜベネズエラ以外の国でチャラスカのような楽器が発明されなかったのか、理解に苦しむところである。


 更に聴き込むに連れて、私はガイタの3/4拍子と6/8拍子がミックスされたリズムにも心を奪われるようになった。
 「三拍子といえばバラード、もしくはワルツ」と思っていた自分にとって、ガイタの「踊れる三拍子」や「シンコペーションする三拍子」という概念は新鮮だった。また3/4拍子と6/8拍子のミックスが「ポリリズム」的なわざとらしさではなく、土着的かつ自然なリズムとして鳴らされている点も衝撃的だった。

 私はふと、連帳プリンタの「カタカタカタ」という音を思い出していた。私はあの時、無意識に「カタカ」と「タカタ」をそれぞれ1つのまとまりと捉え、それに合わせて金属筐体を弾いていたのではないか……! よくよく考えると、そのリズムは6/8拍子だったのである
 更に遡れば、中学生で机を叩いていた時から(無意識に)6/8拍子のリズムを叩いていたことに気づいた。私にとって、6/8拍子は無意識に辿り着く「生まれ持ってのリズム」だったのである。
 しかし、そのことに私は28歳になるまで気が付かなかった。もしガイタと出会っていなかったら、そして3/4拍子とのミックスという補助線がなかったら、一生気付かずにいたかもしれない。


 ポップスの世界において、三拍子のヒット曲というのはとても数が少ない。パッと思い出されるのは平松愛理「部屋とYシャツと私」や、『千と千尋の神隠し』の主題歌である木村弓「いつも何度でも」あたりだろうか。

 そもそも、音楽制作の環境が四拍子を作るようにお膳立てされている。DAWを開けば4/4拍子がデフォルトでセットされているし、ステップシーケンサーも16分が標準である。何かしらの動機がないと、設定を変えて三拍子の楽曲を作ろうとはならない。

 他方、小学校で習った童謡や唱歌を思い出すと、「浜辺の歌」をはじめ、「故郷」「うみ」「こいのぼり」「赤とんぼ」「ぞうさん」「かっこう」など、三拍子の曲はそれなりにあった。自分の世代でも、音楽的なベースに三拍子は確かにあるのである。私はベネズエラという国のおかげで、自らの無意識に流れる三拍子に気づく事ができたのかもしれない。

 曲作りにおいても、大学生の時には分からなかった「リズムから作る」という感覚が、ようやく分かるようになっていた。ピーター・ガブリエルにおけるアフリカのリズムが、私にとってのガイタのリズムだったのである。

その8 2021年(30歳)

 グアコからスタートし、Gran Coquivacoa、Maracaibo 15、Cardenales del Exito、Gaiteros de Pillopoなどのグループを聴き漁った私は、すっかりガイタの虜になってしまった。私にとってガイタは「自分のために作られた音楽」といっても過言ではないほど、身体にフィットしていたのである。 
 折しもサブスクリプションサービスの一般化により、輸入盤の存在なくして直線的にワールドミュージックへアクセス可能な時代が到来していた。ガイタについても(私の見立てでは)2021年3月時点で約3500曲が日本から聴取可能である。
 私はこれらのサブスク上にあるカタログを聴き漁り、良曲かつ良音質のものを選りすぐった。そうして作られたプレイリストが『ああ素晴らしき Gaita Zuliana の世界』である。この文章を読んで興味を持たれた奇特な方は、ぜひガイタの豊穣な世界へ足を踏み入れてみてほしい。

Playlist 『ああ素晴らしき Gaita Zuliana の世界』

※一部日本から聴けなくなっている曲もありますが、2021年公開時のままのプレイリストとしています。

その他のプレイリスト

上記プレイリストにGuacoが1曲しか入っていないのは、別途『グアコのガイタ』というプレイリストを作っていたからです。以下参照。

2021年単独でのプレイリストも作っています。以下参照。


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