最後のアメカジ野郎

 誰もが不幸になる世界最悪のファッションであるアメカジを批判し続けた一年が終わります。当初予想していなかったほどの多くの方に読んでいただき、本当にありがたく思っています。

 アメカジについて書きたいことはまだまだたくさん、無限にと言っていいほどあるのですが、更新中断から復帰三回目の今回の記事で更新を完全に終了しようと思います。十分すぎるほど多くの方々に読んでいただいたので、最後は自分自身のことを振り返り、このままひっそりと終わりにしたいと考えています。

 第一回目の記事でお話しした通り、私も以前はファッションにこだわりがありました。そのはじまりは中学校に入学してすぐ、ウエストゴムではないズボンを母親が買ってきました。それがヨーカドーで買ったと思われるサムシングというレディースブランドの、群青色のジーンズでした。子供服ではなく、立派な大人用ジーンズで、軽くて履き心地の良いサムシングを私は気に入ってどこへ行くにも履いていました。それが私とジーンズの出会いです。それから出会った数々の洋服のことはきれいさっぱり忘れても、そのサムシングのことは忘れません。親が選んでくれた最後のズボンだからです。

 その後、私は男の友人の影響で、Lightning等のアメカジファッション雑誌やインターネットの掲示板・コミュニティに出会います。それは、私にとって余りにも大きな出会いでした。今まで、どれも同じに見えていたズボン、運動靴、トレーナーらを異様に事細かに分類し価値づけし、競い合うように値付けをしているのです。そちらにそういった意図はなくとも、読めば読むほど、無知な自分を責められているような感覚になりました。

 そして、一目見た瞬間には「汚いな」としか思えなかった、色褪せたジーンズや、どう見ても父親が休日に履く運動靴にしか見えなかったもこもこしたハイテクスニーカー、魔女のコスプレにしか見えなかったシルバーアクセサリーが、日に日に目に馴染み、とうとう「欲しい」とすら思えるようになっていったこと、中1が終わるころには、ジーンズが欲しくて欲しくてたまらなくなっていたことを覚えています。その中で、どうやら自分が大切に履いていたサムシングは、いくら履いてもカッコよく色落ちしないことや、そもそもサムシングブランドを展開しているエドウィンというメーカー自体がアメカジ好きな人々にバカにされていることにも気付き始めます。何も変わらずそこにあるサムシングを履くことが苦痛になってくるまで、そう時間はかかりませんでした。

 記事の途中ですが、一度お断りしておきます。私は当ブログ開始当初に名乗っていたプロフィールの"四十代"でも"男性"でもありません。それらは虚偽のものです。大変申し訳ありません。開設時から攻撃的な内容の記事を連発することが決まっていたために、当初は反発があることを予想していました。そういった内容から自分を守ろうという意図があったこと、またアメカジへの意見や知識についてより当事者性を増したいという狙いがあり、四十代男性という仮面を被って記事を書いていました。しかし、蓋を開けてみれば、読者の皆さんから攻撃的な反応は一切なく、温かい言葉ばかりいただくことができました。別人格に守ってもらわなくても、ありのままの自分で記事を書いたとしても、もしかしたら何の問題もなかったのではないか、と更新中断中に自分の浅はかさを身に染みて感じていました。

 この点では、私自身が常に言い続けていた、自分を欺くな、ありのままの自分で居ろ、という主張と矛盾した行動を自分自身が取っていました。そして、自分を欺いた私自身が、皆さんの反応によってやはり、自分を欺く必要などないのだと改めて確信することができました。本当にありがとうございます。

 しかし、どう言い訳をしても、読んでいただいた皆さんを欺くことになってしまい、申し訳ありません。以下より、以前書いたプロフィールを無視してお読みいただくと助かります。たくさんの反応を頂いた過去記事と矛盾が生じる点があるかも知れません。私の臆病さによってそうした状況となってしまい、申し訳ありません。

 話を元に戻します。私は、サムシングのジーンズは体が大きくなったから履けないと親に言い、お年玉の1万円を握りしめて地元のジーンズショップに向かいました。そこで、初めてメンズのワンウォッシュ・リーバイス501を購入しました。最も小さい28インチでもブカブカで、ベルトを持っていなかった私は300円のガチャベルも一緒に購入しました。背が伸びても履けるようにと、余らせた裾を何重にもロールアップして履きました。そのガチャベルも501も、いまだに大切に持っています。その時の高揚感は一生忘れることはないでしょう。アメカジに出会って最も楽しかった瞬間の一つです。

しかし、それが地獄の始まりでもありました。憧れだった濃紺のリーバイスを履いても、何かが物足りないのです。その物足りなさは結局、このブログで追求し続けたことであったのでしょうが、当時の私には全く分かりませんでした。そして、やはり、ジーンズを買って埋まらなかった穴はジーンズを買い足して埋めようと思ったのです。次は、私よりもっとジーンズに詳しい友人に、古着屋へ連れて行ってもらいました。古着屋は、夢のような空間でした。雑誌でしか見たことのない古いジーンズが、本当に目の前にあるのです。そのうえ、小さいサイズはよく売れるサイズより格段に安く、少し頑張れば買える値段です。私は、友人にお金を借りて、雑誌でしか見たことのなかったリバースウィーブと、アイスブルーに色落ちしたLeeのジーンズ、後染めされたコンバースオールスターを買いました。自分が雑誌の中に入り込んだような万能感が、古着屋のフロア中に充満するGONESH NO.8の香りとともに深く記憶に残っています。古着屋に通ったことで、アメカジ好きの顔見知りもできるようになりました。認められた、居場所ができた、そんな気がしたのかもしれません。

そこから先は、転がるようにアメカジに傾倒していきました。アメカジの雑誌を読み込むだけでなく、バックナンバーを探して蘊蓄を丸暗記し、休日は古着屋をぐるぐる回って知り合いに挨拶して次に欲しい服を探し、バイトの給料はすべて古着につぎ込みました。アメカジ仲間に覚えたばかりのアメカジ知識を披露すると、それを彼も知っていて会話が始まること、新しい知識を与えてくれること、その知識が通用する密教的な集団の一員になれたこと、全てが喜びでした。

しかし、いくらアメカジを買っても心は一切満たされません。満たされない思いを消費で埋めようとしても、決して腹の底まで納得できない悪いサイクルにはまり続けました。アメカジの蘊蓄・歴史などをいくら覚えても無駄なのです。モノが欲しくなるだけ、買えないと辛いだけ、余計苦しくなるだけです。

そのうえ、鏡に映る自分に対してどんどん「かっこいい」「かわいい」「素敵だ」と思う感覚が薄れていってしまうのです。自分自身の必要性に寄り添って着ていないからです。そのうえ、周りの友達は誰も、洗っていない汚いジーンズや、乾燥機で丈の縮んだゴワゴワのスウェット、誰が履いたかわからないゴムの劣化したスニーカーなど身に着けていないのです。私と並んで歩く友達が、「それ66後期?」なんて言うわけがありません。誰も自分の服への蘊蓄を言ってくれない当たり前すぎる状況が、それに人生をつぎ込みすぎている自分には孤独に思え、さらには攻撃にすら思えてしまったこともあります。ファッションのテイストを変えたことも何度もあります。しかし、中身の自分は変わりません。服を変えても自分の苦しみには全く影響しないのです。


その頃、やっと自分のおかしさに気付き始めました。

目が覚めかけたころ、周囲のアメカジ好きの人間たちに目を向けると、そこに立派な人間性を持った人が一人もいない、そんな気がしたのです。いつまでもいつまでもアメカジの話ばかりしている彼らが、急にバカに見えてきました。中身がないから、嘘吐きだから、努力していないから、考えられないからアメカジにハマってしまう彼らの生態が見えてしまったのです。

その日から、心に浮かんだことを一言ずつ、一言ずつメモ帳に書き続け、自己を内観しながら言葉を文に、それを文章にしようと長い時間をかけて自分の考えをまとめました。

考えている一方で、行動しました。ファッションにかまけている間できなかったことを始めました。早寝早起きをしたり、家事を覚えたり、勉強もしました。ランニングも続けています。旅行一つ行くのでも、目標を持って、計画を立てて、協調しないと成功させられないことにも気付きました。そうやってやってみたことは、成功すればもちろんのこと、もし失敗したとしても満たされない思いなど一つもないのです。そして、どんな装いをしていても、その満足感に違いが生まれることがないのです。そのことに気付いてからやっと私は、服装で自分自身を表現することは全く必要のないことなのだと確信しました。ですから、その時から私は本当に自己表現を始めることができました。服による表現のように、他人の反応を引き出す必要もない、自分自身のための表現です(どうしても特定されたくないので、どのようなことをしているかは伏せます)。洋服のように煌びやかでもなく、値段もつかない創作でも、続けていくと人がどんどん集まってきてくれます。しょうもないアメカジ野郎のように狭い世界で生きている奴らではない人たちの方が圧倒的に多いのです。人生や勝負するタイミングを、知るだけ、買うだけ、着るだけで失敗もクソもないアメカジにつぎ込んでしまう奴らとともに歩む必要もないのです。いま私は、辛いこともうまくいかないことも多い世界で創作・制作をしながら生きています。

そして私は、アメカジを憎んで捨てたわけでもありません。もう自分のファッションをアップデートすることはやめました。今も、破れていないスウェットやジーンズは大切に着ていますし、もう着られなければどんなにヴィンテージでも捨てます。新しい服も欲しいですが、買いすぎた古着の在庫をどれもちゃんと着古すまでは、責任を持つつもりです。

もちろん、私のように虚しさを感じずにアメカジを単純に楽しんでいる人だっているでしょう。その人にとっては、私の書いた文章はただの暴力になるでしょう。それでも、私は当時の私が言ってほしかったことを書きました。アメカジなんかに意味はない、もっと自分を大事にしろと。

私自身の問題点として、致命的なことは、攻撃する相手がいないと自分の考えが持てないことでしょう。私は、こんなにもアメカジを攻撃しながら自分のことばかり考えていました。それは私の幼さなのです。私がアメカジに対して常に行ってきた批判すべき点は、実は存在していないのでしょう。その全ては、私の心の中にあるのです。

春よりアメカジを批判し続けて、あっという間に年の瀬となりました。もともと最後には、年内にこのように終わろうと思っていました。多くの方に読んでいただき、本当にありがとうございます。そして、私自身が見えていなかった本当に私が欲しかったものを見せてくれたアメカジ、ありがとう。

素晴らしい夜と、夜明けを見せてくれたアメカジ野郎にもありがとう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

※以前の記事でもお伝えしましたが、サポート機能を使って頂いた金額は、芸術活動の普及と発展を願い、全額「独立行政法人国立美術館」の全ての活動へ寄付させて頂く予定です。独立行政法人国立美術館の事業や理念については以下のサイト等をご覧ください。

https://kifu.artmuseums.go.jp/



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