ファッションを「自己表現」だと信じ込まされている哀れなアメカジ野郎

「ファッションは自己表現だ」と信じ切っているアメカジ野郎が多くいますが、嘘です。そんなわけはありません。彼らに胸を張って表現できる自己などありません。強いて言うなら、彼らの狙いは「自己表現」などではなく「優良誤認」です。

 本当に表現したい自己がある人はそれそのものの分野で表現します。例えば芸術、仕事、スポーツなど様々な分野があります。かけがえのない一人の人間が肉体や精神を動かし、選択と決定を繰り返して表現した自己ほど美しいものはありません。

間違っても、90年代の雑誌やネットの情報を鵜呑みにした他人の価値観で選ぶ過去にしか目を向けていない単なるモノ選び(=アメカジ消費)に自己表現などあろうはずがありません。そこにあるものは、買うだけ、着るだけで自分が凄い存在になれた気がする妄想や、他人に自分を凄い存在と優良誤認してほしいという欺瞞の精神です。中身カラッポのままでも、自分と無縁の歴史やイメージを借りて他者が評価してくれる(と思い込んでいる)非常に無為なサイクルにアメカジ野郎は身を置いているのです。

本当に自己表現をしている人は裸になっても、その人そのもののの存在になんら疵はつきません。しかし憐れなアメカジ野郎は、せっせと買い集めたお洋服を脱いだだけであっさりと自分の大部分が失われてしまうのです。あまりにも小さく脆弱すぎる自己ではありませんか。

自己表現とは、自らの成長したいという気持ちを基にして、努力や失敗、挑戦を繰り返しているうちに自然と行われているものです。つまり、自己表現とはその人の人生の営みから生まれる副産物であり、自己表現そのものが目的化していることの虚しさに気付くことは容易です。くわえて、繰り返し言ってきましたが、アメカジ野郎は努力というものができません。努力や成長という未来に向けた困難を伴う行いより、アメカジという過去だけ見た手っ取り早い評価(されるとアメカジ野郎だけが盲信しているモノ)を求めるのです。虚しいにもほとがあります。

ある人間が、自分が見出し自分が作り出したものに優劣などあろうはずがありません、それらは全て等しく美しく価値あるものです。それに比べ、アメカジ野郎はジーンズの年代やしょうもないディテールの差異、復刻スニーカーの再現度などに非常に細かく差別を繰り返し、それを選ぶ人間の人格まで細かく差別をし続けています。本来人間一人一人の価値にはなんら影響しないお洋服で人を差別することの、何が自己表現なのでしょうか?以前の繰り返しにもなりますが、そもそもの問題として、この時代の日本で生まれ育った人間がなぜアメカジに自己表現を託すことが自然なのでしょうか。彼らは人との関わりや自己と向き合った経験から、多角的に自分自身を見つめること無く、雑誌や広告、ネットのアメカジ知識を鵜呑みにし続けたことで、本当に表現できる自己を見つけることすらできずに虚しくアメカジに金と時間とかけがえのない自分の意思を投げ捨て続けているのです。本人だけがマーケティングの言いなりとも気付かずいつまでも自分の選択だと信じたまま。

アメカジ野郎にとっては、まずアメカジで表現できる自己はないということの認知自体が困難かもしれませんが、ただ一つの救いは、この世に自己を持たない人間などいないということです。アメカジに本来の自分を抑制され、ジーンズやスニーカーは人生に不可欠だと信じ込まされ、それ以外の選択肢を捨てるように洗脳され、自分の意思とメーカーの意思の区別も付かなくなったアメカジ信者にも必ず生まれ持った、アメカジと出会う前に確立された自己はあるはずです。あとは、今からでもアメカジという誰もが不幸になるファッションを脱ぎ捨て、そこに隠されていた本当の自分を開放することです。

私は、彼らがそうして更生の道を歩もうとする時に必ず迎え入れ味方になりたいと思っています。

今回もお読みいただきありがとうございます。


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