見出し画像

なかなか決まらない話し合いのはなし

研究というのは色々なスタイルがありますが、人類学の場合は大学や研究所などでグループとして研究することが多いです。特に大学ではそのグループを「研究室」とよく呼びます。PI(Principal Investigatorの略)と呼ばれる、研究室のリーダーがいて(教授とか准教授などがこれにあたります)、その下に研究員や大学の学生なども所属しています。単に研究だけするのではなく、自分達の研究に近い論文の紹介や研究の進捗状況を発表するセミナーがあったり、皆で教科書を読む「輪読会」を行ったりします。

研究室にも流儀というものがあって、他の研究室を訪れると驚くことがあります。それは研究の進め方だけでなく、話し合いの仕方にも如実に現れます。今回はそんなお話。


話し合い中の沈黙…

他の研究室の輪読会に参加した時のこと。そろそろ次に読む本を決めようか、という話になって、数冊候補が挙がりました。「普通」だったら、それぞれ読みたい本を挙げて、その本を読むべき理由なんかも添えて、一通り意見を言った後に多数決をとって、はい決定!と、そう思っていたのですが、その研究室の「普通」は違っていました。

5人くらいが意見を言って、「これ読みたい」「この本も気になる」と呟く。連想ゲームのように思いついたことを語っていく。そういえば昔はこんな本を輪読会で読んだ、あの本は難しくてすぐにやめた、あの本はかなり良かった、そういえばこういう本も最近出たから面白いかも、云々。一向に決まる気配が見えず、候補の本は逆に増えていき、更には話題が尽きたら皆で黙りこむ始末。…え、この沈黙はなんなの!?意見言って多数決取ればいいんじゃないの!?なんで誰も話さないの!?

そうして結局決まらず、また次回の輪読会の時に話し合おうということに。それを数回繰り返して、ようやく決まったのです。そして多数決は取らずに、最終的にはなんとなく皆の総意のようになって決まりました。


寄り合い方式―昼夜を問わず3日続く話し合い―

この光景を見ていて、宮本常一の『忘れられた日本人』に出てくる寄り合いの話を思い出しました(※1)。

著者の宮本常一が1950−1951年の対馬の伊奈という村にいた時のこと。「村の古文書をしばらく借りたい」と著者が村の老人に頼むと、そういうことは寄り合いに持っていって皆の意見を聞かねばならないと言って、老人の息子が寄り合いに出かけていく。しかし昼になっても午後3時を過ぎても帰って来ない。次の村にも早く行きたいし、と半ば焦りながら寄り合いの場へ行ってみると、まだ結論は出ていない。朝からずっと古文書について話していたのではなく、他の議題についても話したり、関連した話もしていたという。そこでまた1時間以上も話し合った後、ある老人が「どうであろう、せっかくだから貸してあげては…」と一同に言うと、「あんたがそう言うなら」と話が進み、借りられるようになったという話。

“私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。(中略)夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。”

結論を急ぐ訳でもなく、あれでもない、これでもないと話し、雑談を交えながら、それでもいつしか決まっていく。200年以上も続いていたという寄り合いの方式に、筆者の宮本常一は驚いたことと思いますが、私もまた小さな「寄り合い」のノンビリした決め方に少し驚いたのでした。時間はかかるけれど、その分不満に思うこともなく、穏便に物事が進むのだろうなと思います。時間にゆとりがある方は、一度お試しあれ。

(執筆者:mona)


※1  宮本常一著『忘れられた日本人』岩波文庫(1984)
この本の底本として『忘れられた日本人』未来社(1960)が用いられています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?