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身元不明の漂着遺体から…

思いもよらない資料/試料が偶然手に入ることによって,これまでなかなか進まなかった研究が一気に進展する,ということがあります.人類学はヒトを扱う研究であるため,実験的な介入の程度がほかの動物と比べて低くなりがちです.(たとえば,特にヒトに対しては,痛みやケガや後遺症が残ってしまうような実験をすることは,倫理上とても大きな問題がありますね).

そのため,意図的に手に入れることはできなかったけれど,偶然手に入った最適な試料によって,これまでわからなかった事実が明らかにされるような状況が,人類学や医学には比較的多く見られます.今回紹介するのは,そうした偶然のもたらした研究の一例です*1.


歯に記録される成長線

英国のサウスウェールズに流れ着いた身元不明のアフリカ系の若い男性について,司法解剖の一環として,歯の切片標本が作られました.歯を薄く切って顕微鏡で観察すると,日単位で形成される成長線が見えます.この成長線から,栄養失調や病気の履歴がわかることがあります.

歯に形成される成長線は,司法解剖のみならず,人類学の研究にも使われます.歯の先端から根本まで何本の成長線があるかを数えれば,その歯が形成されるのにかかった年月の長さがわかりますし,成長線どうしの間隔を調べれば,歯の成長速度の大小がわかります.

しかしこの手法には,異なる歯どうしの記録をつなげられないという問題があります.犬歯や大臼歯といった異なる歯は異なるタイミングで形成を開始しますが,大臼歯がどこまで形成されてきた段階で小臼歯が形成され始めるか,といったことがわからないのです.


抗生物質のタイムスタンプ

この問題は,すべての歯のもっとも先端の成長線に一時的に取り込まれて,異なる歯に同時に記録が残る「タイムスタンプ」があれば解決します.たとえば,大臼歯の形成が終わりそうなところの成長線と,小臼歯の形成が始まったところの成長線に,このタイムスタンプが見られたりすれば,異なる歯どうしの時系列の記録を一直線に並べることができます.

そうしたタイムスタンプのひとつに,テトラサイクリンという抗生物質があります.テトラサイクリンが取り込まれた成長線は紫外線を当てると光るため,ほかの部分と区別できるのです.しかし,テトラサイクリンは歯に悪影響を与えるため,歯が発達中の子供には処方しないことになっています.つまり,歯の成長を詳細に調べるために,テトラサイクリンをヒトの子供に投与する,ということは倫理的に不可能なのです.


身元不明遺体の歯には

さて,ここでサウスウェールズの身元不明遺体に話を戻します.この個体の歯の切片を調べたところ,なんとテトラサイクリンのタイムスタンプが30本もみつかりました.この個体は幼少期に感染症などを経験して,しかしそれを治療する抗生物質がテトラサイクリン以外になかったのだと推測されます.

偶然みつかったテトラサイクリンのタイムスタンプを手がかりに,研究者たちは異なる歯が全体としてどのように成長していくかを詳細に調べ,永久歯の成長様式を記述しました.偶然得られた研究資料が,これまで調べることができなかった事実を明らかにしたのです.


おわりに

ヒトを対象にする学問である以上,人類学には一種の危うさが伴うのも事実かもしれません.たとえば,学問を前に進めたいあまり,偶然手に入ったと偽って,倫理的に問題がある資料を使って研究をしてしまうような危険性に対しては,良識ある研究者であれば,常に警戒しておく必要があるでしょう.健全な学問の発展のためには,研究者みずからが,客観的な視点で,自分たちのことを観察しておく必要があるのです.

(執筆者: ぬかづき)


*1 Dean MC, Beynon AD, Reid DJ, Whittaker DK. 1993. A longitudinal study of tooth growth in a single individual based on long- and short-period incremental markings in dentine and enamel. Int J Osteoarchaeol 3:249–264.


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