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「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(総集編3)

「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(その6):想像力の二面性

ここでは、想像力の二面性について、精神分裂症(統合失調症)の患者と超越的な次元に到達した人とを比べながら、明らかにしていく。
ここでも、三者の対話形式をいったん停止し、私の概説にとどめておく。

■精神分裂症的体験は超越的か?

想像力は、いわば「諸刃の剣」で、人を進化させもするし、気を狂わせもする。
「精神分裂症(統合失調症)」のように病理的な退行現象を起こしている人と、超越的な段階に達した神秘思想の実践者が似通って見える場合があるが、もちろん両者はまったく異なる。
この両者の違いを発達論にてらして見ると、想像力の二面性が浮き彫りになる。

まず、精神分裂症的破綻をきたしている人は、人格形成上の障害が発生した時点に意識が退行していると同時に、超越的な状態にも無防備な(前自我的/前言語的/神話的/魔術的な)かたちでさらされてしまう、という二重の悲劇に見舞われているという。

W:自己は下位レベルの意識に退行しはじめると同時に、上位領域(とくに微細領域)の諸側面の流入にさらされるのだ。別な言い方をすれば、下意識に入り込むと、超意識が入り込んでくるのである。つまり低次レベルに退行すると、高次レベルの侵入を受けるのだ。潜在的無意識だけでなく発現無意識(※)にも出くわすのである。わたし個人はほかに精神分裂症的破綻現象を説明する方法があるとは思っていない。精神分裂症を完全な退行とみなす人々は、その宗教的次元を全面的に見すごし、一方、それを完全に霊的あるいは並外れた健康としてとらえる人々は、実際の精神の断片化や退行の証拠を無視してしまう。

(※)発現無意識とは、無意識領域のうち、超個的な領域に属するもので、発達論的には、人類はまだこの領域が意識に発現することを十分に体験していない。つまり、発現する可能性を潜在的にもっている領域。

精神分裂症の患者が、自分の超越的直接体験について、とめどなくしゃべったり文章に書いたりする場合がある。これが、外側からは「並外れた健康状態」に見えたりするが、その内容を吟味すると、部分と全体、項目(メンバー)と類(クラス)を混同していたりする。
たとえば、ウィルバーは、「自分はキリストである」と主張する精神分裂症の男性の例を出している。その男性は同じような意識現象が他の人にも起こり得るということは認めたがらないという。
またある患者は、「昨晩、わたしは瓶のなかに入り込んだが、コルク栓をすることができなかった」と言った。このとき、彼が伝えようとしていたのは、単に「寒くてなかなか眠れなかった」ということだったが、彼にはベッドと瓶の区別がつかない。どちらも何かを収容する「器」であり、同じものなのだ。また「ベッドから毛布が落ちてしまう」のと「瓶からコルク栓が落ちてしまう」のも同じなのだ。

発達の各段階のうち、「身体自我段階」と「心的-自我的段階」の出現時点(いずれも発達の初期段階)は、とくに精神分裂症を引き起こしやすいという。
身体自我段階とは、自己と世界とが未分化な新生児の意識段階から、自己の身体と世界とが分化し始めた段階である。その時点で障害が発生すると、意識が身体に完全に根づくことができず、弱い身体イメージがその後の人格形成の基盤になってしまう。その状態で、言語を習得し始め、自我が芽生え、心と身体が分化し始める心的-自我的段階を迎えると、「偽りの自己」が生み出され、身体を「他者」と感じ、「心」を「自己」として体験する傾向が生じてしまう。
それと同時に、思春期以降、微細レベルの自然な浮上が起きうるため、そこで精神分裂症を発症すると、「偽りの自己」によってのみ微細レベルを受け止めることになり、これが二重の悲劇を生む。
人は一般に、精神的外傷などの障害が発生し、人格形成が妨げられた時点の深層構造に退行することで、人格を再構築し「生き直す」ことになるが、この生き直しによって、何か「悟り」や「解脱」に似たようなことが起こるわけではない。
真に超越的な(微細領域の)段階に至った人の想像力的直接体験は、精神分裂症的な幻覚体験とは似て非なるものであり、純粋に視覚的で、まったく言葉を使わないものであり、ユングの言う「元型」に近い。そのレベルから生じてくる限り、それらは現実のものであって、幻覚ではない。

■退行と超越の決定的な違い

ここで、話を少し夢学に振り向けよう。
たとえば、あなたがドリームカウンセラーだったとする。
ある日、あるクライアントが現われ、「ブッダと一体化する夢をみました」と報告したとする。このクライアントが退行現象をきたしているのか、それとも真の超越者かを、どのように見分けたらいいだろう。
まず考えるべきことは、このクライアントが何のためにカウンセリングを受けにきたのか、その真の「目的」である。
つまり、その人が真の超越者なら、たとえ「ブッダと一体化する夢」をみたからといって、ドリームカウンセラーのところへ、それを「相談」にくるだろうか、ということである。
次に考えるべきことは、その「報告」(相談?)が、自慢話的、自己本位的、自己愛的なものなのか、それとも本気で悩んで(畏れたり、対処に困ったりして)いるのか、ということである。
自分をキリストだと勘違いしている男の話にてらして見るなら、精神分裂症的破綻をきたした人間は、「仏性は誰にでもある」ということが理解できず、「ブッダと一体化する」といった夢をみることは、自分にしか起こり得ないと思い込んでいるだろう。
夢に限らず、この手の「伝記的スケッチ」が、単純に思い込みや幻覚なのか、あるいは単なる「捏造」なのか、という見極めも必要になってくる。
そこを見極めるには、夢のディテールに関し、徹底的な「聴き取り」を行う必要があるだろう。つまり、それが本当に「直接体験」かどうか、細部に破綻や不整合がないかに留意する、ということだ。もし単純な思い込みや幻覚や捏造なら、どこかにほころびが生じるはずである。
あるいは「私もそういう夢をみたことがあります」「先日も似たような夢をみたという人が現れましたよ」などと揺さぶりをかけてみるのもいいかもしれない。
もしその人の伝記的ストーリーが、悪意に満ちており、本能的・衝動的なものであり、「反—霊的」で、「際限なくしゃべりつづける」ものであり、その人自身の体験に限定づけられているなら、それは退行の随伴現象を疑ってみる必要がある。
この場合、夢主が夢のなかでのブッダとの一体化を自慢げに語るなら、「ブッダ」はその人の影(シャドー)である可能性が高いだろう。つまり、その人は尊大で肥大化した自我に自己同一化しているということだ。
また、もし夢主が、その超越的な夢に対して自己愛的(ナルシスティック)な受け止め方をしているのではなく、戸惑っているなら、何らかの(ごく軽度な?)退行現象に伴う微細領域の流入があるのかもしれない。あるいは、病理性のない突発的な(一過性の)「高次体験」の場合もあるだろう。その場合は、この超越的な夢に注目するより、他の夢も考慮しながら、その夢主が何らかの退行現象を起こしているのか、あるいは順調な発達の結果なのかを探る必要があるだろう(むしろ、周辺の夢に退行の構造が現れていないか探る方が重要)。
一方、そうした夢が真に超越的な段階のものだとするなら、ウィルバーによれば、「純粋に視覚的で、まったく言葉を使わない(超言語的な微細領域に属する)」ものであり、ユングの言う「元型」に近いという。「つまり、これらの幻覚は純粋に微細的、超個的、元型的レベルから生じる」ものであり、「そのレベルから生じてくる限り、それらは現実のものであって、幻覚ではない」という。ついでに言うと、退行ではなく発達の結果として微細領域を発現している人にとっては、仮にこの手の夢をみたとしても、それにいっさいこだわりを持たないに違いない。
さらについでだが、禅の修行では、「瞑想中に仏が現れたら、仏を殺せ」と教えられるという。これは、そうした高次体験によるエゴの拡張を防ぐためだと言われている。こうした禅の教訓も、想像力の二面性に対する対策のひとつと言えなくもない。

ウィルバーは、精神病者と神秘家は、ともにアートマン・プロジェクトにおける「統一」を目指していることに変わりはないものの、神秘的統一が精神病者の統一の試みとはまったく異なるものであることを、エーリッヒ・フロムの認識をもとに、次のようにまとめている。

W:神秘的統一とは、前個的、前意識的な天国の調和(プレローマ的・ウロボロス的下意識※)に後戻りする退行的統一ではなく、人間がみずからの分離性を体験した後、つまり、自分自身と世界からの疎外の段階をへて、完全に生まれ落ちた後に初めて達成される、新しいレベルの統一だからである。この新たな統一は理性の十分な発達をその前提としている。もはや理性が直接的、直観的なリアリティの把握から人間を分離させない段階に至らなければならないのだ。

繰り返すが、プレローマ的段階、身体自我段階、心的自我段階という具合に、発達の前半部分を順調に進んだ結果として、その上に乗っかる(含んで超える)かたちで微細領域などの上位の段階が初めて発現するわけである。
発達論的観点を考慮に入れず、その人が語る超越的な自伝的スケッチにのみ注目するなら、想像力のもつ二面性にまんまとしてやられ、重大な発達上の問題を見逃してしまう可能性もある。

※プレローマ
新生児の意識状態で、自己と世界、内部と外部、主体と客体、身体と環境が未分化な状態。
「プレローマ」はグノーシス派の用語で、「世界と自己とがひとつである。自己が物質的である」状態を意味する。
※ウロボロス
「ウロボロス」とは、自分の尻尾をくわえ、自己完結した未分化な塊をなす(まるまっている)神話上のヘビ。
胎生的な新生児状態から、最初期の幼児期(幼生的自我段階)に発達した状態。完全なプレローマ的段階ではないが、まだ前自我的(自己と世界との境界が曖昧)である。


「インテグラル理論」と「魂理論」の結婚(その7):想像力が導く

■魂は想像力によって人を立ち止まらせる

M:もう一つ、魂の特殊な性質としてあげられるのは、謎めいたイメージで自らを表現するその方法である。魂は想像力の領域に住み、イメージと象徴からなる一種の詩的言語を通して、人生の方向や質に影響をおよぼす。

K:この言葉で注目すべきなのは、魂は「人生の方向」だけでなく「質」にも影響をおよぼす、という点である。発達論の観点に立つと、人は時間的な推移による変化に気を取られがちになるが、魂は、むしろ人が何気なく瞬間的に発揮するものの「質」のなかにこそ、その姿を現す。

M:魂の知性は知的な分析を通してではなく、じっくり時間をかけた熟慮を通して物事の本質にせまろうとする。その目標は曇りのない認識や論争の余地のない真理に達することではなく、深遠な洞察や不変の智恵にたどりつくことだと言ってよい。

K:魂は、人生というフルコースの料理をアレンジするシェフだと言える。おそらく、魂には、「あなた」という人間の完成形のイメージがあるのだ。それに欠けている料理は直ちにメニューに載せるだろう。だから、自分の目の前に運ばれてきた料理は、驚く前に味わう必要がある。
数学者は唯一絶対の答えを求める。それに辿り着いたら、探究は終わる。一方、魂は、何かの答えめいたものに辿り着いたとき、人の歩みを立ち止まらせ、「ちょっと待て」と言う。「まだ何かあるはずだ。人生の答えはそんな単純なものではない。たとえば、今手にした答えの逆を考えてみろ」といった具合の挑戦をしかけてくる。魂は先へ進ませるばかりでなく、人を立ち止まらせもする。

■魂は夢のなかに大胆に現れる

M:複雑で難解な夢を理解する一つの方法は、それを魂の啓示とみなすことである。もちろん、魂は日常生活のなかでも随所に顔をのぞかせるが、夢のなかでは、さらに大胆に自らを現す。夢についての簡単な話しあいは、お互いの魂に特有のイメージやテーマをわかりあう助けになる。夢の話はまた、夫婦の会話を合理的な解釈や解決をもとめようとする傾向から遠ざけ、より詩的な内省スタイルへと転換させる。このような転換は重要なものだ。魂は理性よりも詩によって動かされるからである。

K:人生という料理を味わう主体は、あくまであなた自身である。あなたが自分の人生の主体であり、人生に起きることは味わうべき料理である。もし、起きることがあなたのすべてを決めるなら、あなたは料理にすっかり自己同一化してしまう。あなたは出来事に振り回され、絡めとられ、自分を見失う。するととたんに、あなたが料理を味わう主体ではなくなり、あなたの人生は、誰かが味わう料理にすぎなくなってしまう。
あなたがあなたの人生の主体なら、あなたは人生に起きる出来事を、数学者としても、詩人としても味わうことができる。

K:夢は、人をいったん立ち止まらせ、別の方向に振り向かせ、そこにあるものを象徴的に提示してみせる。提示されたものが暗示的で多義的であればあるほど、人はそれを深く読み取ろうとするからだ。そのために夢は、何と何の間でダンスを踊るべきかを象徴的に見せるのだ。だからこそ、夢には「動き」も示される。二つの極とともに、その間での揺れ動き方も示されるだろう。
人は、北極と南極に引っ張られながら、トータルでは赤道の周辺を歩むことになるのだ。

M:夢はわれわれ自身を啓発するために魂によって生み出される一つの芸術の形態である。

K:「あなたにとって家族が、相互依存的であり、ストレスや鬱の原因であり、自分の人生を後退させるものなら、家族から離れなさい」とカウンセラーは言うかもしれない。しかし魂は知っている、人はいずれにしろ何かに愛着し、何かに反発するものであることを。だから夢は、「そのやっかいで不条理で、およそ理性的とは思えない状況に留まれ」と言う。「変えなければならないのは現実の状況ではなく、状況に対するあなたの受け取り方、対し方(つまり、ダンスの踊り方)なのだ」というわけである。しかし、その理不尽さが、魔法かと思えるような劇的な変化をもたらすこともある。

K:人生に正解などない。あなたが下した判断を審議するのは、目に見える物差しでも、学問的体系でもない。魂は、あなたの人生の始まりと終わりの両方を、一種の見取り図、地図、青写真としてもっているため、あなたの判断に「Yes」「No」が言えるのだ。それは審議ではなく、軌道修正である。心理学的審議は「やっかいな迷路には入るな」と言うだろうが、魂は「迷路のなかで軌道修正はいくらでもできる」と言う。なぜなら、人生の迷路において、ゴールにたどりつくルートはひとつではないからだ。

■魂はときに魔術、錬金術、ファンタジーという手段を用いる

M:すべての親しい人間関係はある程度の魔術を必要とする。というのも、魂が必要とするものをなし遂げるのは、理性や意志ではなく、魔術だからだ。

K:真の「アートマン」ではなく、アートマンの「代用品」を手に人生を歩むしかない私たち人間にとって、特にすっきりとした理屈では割り切れない人間関係が問題ならなおのこと、魔術、神話、錬金術といった手法を取らざるを得ないだろう。
ここでトマス・ムーアが言っている「魔術」とは、必ずしも儀式的な秘術を用いて超自然的な力を発揮することを意味しない。そうではなく、魂の住処である内的次元に分け入る手段としての魔術だ。夢の読み解きがそのひとつであり、瞑想もそうだろう。優れた芸術作品に触れることもそうだろう。
トマス・ムーアはそれを「錬金術」にたとえる。錬金術は、合理的な精神が負の側面、影の側面ととらえるような要素に、不可能に思えることを可能にする手段を見いだすのである。

一般に、錬金術は次の弁証法的な3段階のプロセスをたどる。
〇ニグレド
何事か新しいものが生成する際に、その第一段階として起こる「腐敗」「分解」「崩壊」「解体」のプロセス。
〇アルベド
ニグレドの暗黒状態に薄明かりが射し、影に隠れていたものが中間領域に引き出され、様々な境界が曖昧になり、その分想像力が鼓舞され、変化の兆しが示される。
〇ルベド
実際行動に出ることで、対立する二つのもの同士の圧力が高まり、連続的に激しく摩擦を起こし、最後には一方がもう一方を駆逐するか、あるいは両者が融合し、新しい性質のものになる段階。

K:確かに、子どもは「サンタクロースとは、本当は両親のことなのだ」と気づいたときに、ひとつ大人になるのかもしれない。しかし、さらに大人になることとは、それまで思いもよらなかった「サンタクロースの実在可能性」あるいは「サンタクロースの元型的意味」に気づくことではないだろうか。

K:意識の成長・発達とは、「死角」(網膜に映っていたとしても、意識が捉えていないもの)がどんどん少なくなっていくことを意味するとも言える。想像力も、子どもっぽいファンタジーからスタートし、段階を踏んで進化すると考えてみよう。だとすると、もっとも進化した想像力とは、「神」に対する想像力ではないだろうか。当然のことながら神は、全体にも、より緻密な細部にも宿っている。
アートマン・プロジェクトで言えば、ディテールとはまさに表層構造のことである。そして魂は、深層構造に根を下ろしつつ、表層構造に関与する(※)。

(※)人間の意識発達のモデルを高層ビルにたとえるなら、そのビルのそれぞれの階は、次の二つの構造体によって構成される。
〇深層構造:その階全体を定義づける形式であり、その階のあらゆる潜在的可能性と限界を表している。「この階では、こんな形式の事柄を経験する」ということを規定する。
〇表層構造:深層構造のある特定の発現の仕方を表している。深層構造の形態によって規制されるが、その形態のなかではさまざまな内容を選択する自由を持つ。深層構造が規定する範囲内で、どんな具体的な内容を選択するかを決定する。
「深層構造」とは、ジグソーパズルの「土台」のようなもの。「表層構造」とは、ジグソーパズルの「ピース」のようなもの。その階で完成させるべき「絵」の枠組みないしイメージだけが「深層構造」によって規定され、それに見合うピースが「表層構造」によって選ばれ、土台を埋めていく。
ピースを埋めていく「表層構造」の動きを「変換」と呼ぶ。
もうこれ以上「変換」ができなくなったとき、ひとつ上の階への「住み替え」が必要となる。「深層構造」によるこの「住み替え」の動きを「変容」と呼ぶ。
「変換」も「変容」も、規模の差こそあれ、どちらも弁証法的ダイナミズムである。

■魂は死と再生のプロセスをもたらす

M:魂の思惟様式は知的な分析ではなく夢想なのだ。魂による治療のプロセスは感情が浮き沈みする日常生活の気分の流れの渦中で起こり、最終的な治療など存在しないという前提に立っている。魂にとって、死は永遠に身近にあるものなのである。

M:われわれの明晰な認識やもろもろの期待、理知的な努力や手法、高潔な価値観や信念といったものはすべていったん死ななければならない。そのことを、ユングは錬金術の視点から、王様ないし太陽の殺害として描いている。魂の成長に手をかすには、明るい健全なビジョンを生み出す源である自我による操作を明け渡し、死と再生のプロセスに自らをゆだねなければならない。

K:何か根本的な治療や方向転換が必要になったときに、魂が施すプロセスは、大胆かつ容赦がない。魂はときに、宿主の死をも要求する。魂は肉体の存続を忖度しないのだ。宿主はときに、肉体の破壊を強いられることさえある。魂は、「本格的な生まれ変わりが起きないと、この宿主にホンモノの死が訪れるかもしれない」となったときには、ギリギリの方法で宿主の「死」を演出するだろう。
場合によって魂は、人を「蝶」にするために、「サナギ」の状態へと霊閉するかもしれない。「サナギ」の状態とは、すべての「動き」を止めることにほかならない。ときにその「停止」は、深刻な病として現れたりする。

■夢で死ぬことの意味

K:夢のなかで自分の死を体験することの意味は、「新しく生まれ変わる」というところにある。文字通り、それまでの旧い自分が死ぬのだ。それまで信じていた常識や固定観念や因習、誰かに刷り込まれた考えが完全に無効になり、場合によっては、まったく新しいものの考え方、とらえ方が芽生えることもある。夢のなかで死んだ数だけ、人は脱皮して成長する。

K:夢においては、死と再生はほとんど同時に起きる。あなたはその瞬間、文字通り雷に打たれるのだ。覚めた後も、その感覚は消えない。電撃は、死と同時に覚醒ももたらす。そのとき、あなたは気づく、夢のなかの自己の死は、魂の要請でもあったことに。あなたの魂が本当は何を望んでいたかを知って、あなたは胸を打たれるだろう。

K:厳しい言い方になるが、もしあなたが、魂、想像力、内的次元といったことにいっさいおかまいなしでいるなら、現実生活のなかで、思いもよらないトラブルだとか、事故や怪我や病気に見舞われないとも限らない。
あなたが、目の前に現れたものを、単なる偶然のアクシデントや災難ととらえるのも、あるいは、あなたに欠けているものを補うために、魂があなたに「サナギ」の状態を強いろうとしているのだととらえるのも自由だ。

■魂は自分独自のオリジナルの辞書をもっている

M:それぞれの人間が独自の心理学的な辞書をもっているほうが好ましい。そのほうが、自己啓発のマニュアル本によって際限なく提供される考えからキーワードを借用するよりはるかに有効だろう。

K:私が授かった夢の秘儀の最終的な教えは、まさに自分独自の心理学的辞書(夢のシンボル辞典)を編纂することだった。つまり、自分の夢に登場するひとつひとつのシンボルが、自分にとってどのような意味を表すかを集大成したオリジナルの辞書ということだ。

K:ついでに言及すると、あなたの夢に頻繁に登場するシンボルは、その意味を必死に追い求めているうちは読み解けなくても、それこそあなたが魂の要請に従って、新しいことにチャレンジし続け、人生に大きな変化をもたらしたとき(つまり、旧い自分において死んでみせたとき)、ふと気がつくと、最近夢にそのシンボルが登場しなくなったことで、はじめてその意味に思い当たる、という場合さえある。「空を飛ぶ夢」を年中みていた人が、「最近みなくなった」と言うなら、実人生において飛躍してみせている証しかもしれない。「最近みなくなった夢」こそが、あなたの墓碑銘に刻まれる「かつての私の抜け殻」である。

K:夢は、実に有り難い人生の指導者、アドバイザー、指南役なのだ。あなたは、あなたを導こうとする生身の教師(親、恩師、先輩など)に、いくらでも抵抗したり逆らったりできる。しかし、夢(あるいは魂)という教師に逆らうことはできない。それは、もう一人の(より本来的な)あなた自身だからだ。

■締めくくり

最後に、トマス・ムーアの次の引用で、このシリーズを締めくくろう。

M:あらゆる人間関係は、親子や夫婦の親密な関係から、仕事の同僚や商売相手、さらには、毎日、仕事に行くときに乗るバスの運転手とのちょっとした関係にいたるまで、魂の関わりだと言ってよい。この関わりによってもたらされる贈り物は、親しさだけではない。魂そのものを開示し、その神秘にもっと深く入り込むよう誘うのだ。顕在化した性質と秘め隠された性質をあわせもち、錬金術的な変容をとげる神秘的な魂。その魂との婚約。人生の真髄を言い表すのに、その言葉ほど適切な表現がほかにあるだろうか? もし一粒の砂に全世界を見ることができるなら、運命が交わり、心が溶けあう人生の小さな点に、魂そのものを発見することもできるはずだ。

さあ、全世界を映し出し、運命が交わり、心が溶けあう人生の小さな点を目指して、弁証法的なダンスを踊り続けようではないか。

■まとめのまとめ

ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」(特に「アートマン・プロジェクト」)とトマス・ムーアの「魂理論」(「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」)の結婚を試みる7回のシリーズを振り返ってきた。
最後にそれをさらにまとめておこう。

ウィルバーとトマス・ムーアのもっとも根本的で最大の共通点は、「人生は弁証法的な動きの連続である」という点だろう。
ウィルバーが提唱する「アートマン・プロジェクト」においては、人間の意識・精神・心(つまり内面=四象限のうちの左上象限)は、弁証法的な動きを繰り返すことによって、下位構造から上位構造へと——今まで全体だったものがより大きな全体の部分として(全体が部分を含んで超えるかたちで)——統合されていくことになる。それが成長・発達ないし「進化」と呼ばれるもので、これは生物学的な進化の構造とも共通している。
「アートマン・プロジェクト」において、進化と同程度に重要なのは「内化」のプロセスである。内化とは、肉体の死で始まり、魂が次の肉体に宿ることで完結するプロセスで、進化の真逆のプロセスである。つまり、上位レベルが下位レベルを「含んで超える」のではなく、上位レベルを下位レベルで「包み込む」あるいは「巻き込む」プロセスである。言い換えるなら、進化とは基底無意識のなかの深層構造が段階的に開き出されていくプロセスであるのに対し、内化とは魂によって創造された代用物を基底無意識のなかに段階的に(進化と反対の順番で)投げ込んでいくプロセスであると言える。
すなわち、魂は進化と内化の両方のプロセスを経験していることになる。
内化のプロセスを考慮するなら、赤ん坊は意識の上で決してまっさらな(ゼロの)状態で生まれてくるわけではない。赤ん坊は「何か」を携えて、この世に生まれてきて、そこから進化のプロセスをたどる。
したがって、人がこの世で生きるということは、いわば魂が携えてきた「何か」を探り当て(あるいは掘り起こし)——すなわち基底無意識の中身を段階的に開き出し——それをもとに表層構造を新たに刻んでいくプロセスであると言えるだろう。

そこで、魂の動き(あるいは魂の意図)をいかに読み取るかが重要になってくる。
人は、自分の人生が順調で、何の悩みも障害もつまずきもなく歩んでいるうちは、魂の存在をほとんど意識しないかもしれない。そのときに意識されている「自分」とは、いわば「意識=自己」+「自我」としての「自己システム」あるいは「近接自己」+「遠隔自己」としての「全体としての自己」だろう。その間、魂はすっかり潜在化している。
しかし、人は人生につまずき、壁にぶちあたり、人間関係にも問題が生じ、歩みが止まったとき、「本当の自分とは何か?」「自分は何のために生まれてきたのか?」といったことを考え始めるだろう。そのとき、魂について、あるいは魂が携えて生まれてきた「何か」について思いを馳せるに違いない。
魂は、進化と内化を両方経験し、エロスとタナトスの両方に精通している。そのうえで、自己システムあるは全体としての自己を俯瞰で観ている。私が「肉体は船、心は舵、魂は羅針盤」と呼ぶのは、そのためである。
そういう意味で、魂は、人生に反対向きの歩み、後ろ向きのドライヴを強いる(ように見える)。
人はエロスだけでは生きられない。人生には必ずタナトスの瞬間が訪れる。人は、生まれ変わるために、生きながらいったん(少なくとも部分的に)死ぬことを要求される。そのときこそその人の「魂の意図」が問われる。
だからこそ人生とは、内部と外部の、現実と魂の、エロスとタナトスの、愛着と反発の、明るみと暗がりの、山頂と谷間の、単純さと複雑さの間で繰り広げられるダンスなのだ。
言い換えるなら、人が生きることにとって、順調な歩みと反対向きのベクトルが示されることは、忌避すべきことではなく、弁証法的な進化のための恩寵なのだ。

以下に、魂が私たちにどのように人生のダンスを踊らせるか、その方法論をまとめておく。
魂は、想像力、夢、イメージ、空想、象徴(シンボル)、詩的言語、神話、錬金術、魔術、ファンタジーといった方法論を用いて、私たちを導く。したがって、魂は「人生の方向」だけでなく「質」にも影響をおよぼす。
魂は、単純な結論を許さず、ときに答えを長引かせ、むしろさらなる探究や、いつ終わるとも知れない内省を強いる。正確な解釈や分析よりも、人を夢想へと誘う。魂は、数学者であるよりも芸術家や詩人であることを望む。さらっとすっきり、歯切れのいい味よりも、濃厚でねばっこい、奥深い味を好む。
魂は、人生というフルコースの料理をアレンジするシェフだと言える。自分の目の前に運ばれてきた料理は、驚く前に味わう必要がある。人生という料理を味わう主体は、あくまであなた自身である。もし、起きること(出された料理)があなたのすべてを決めるなら、あなたは出来事に振り回され、絡めとられ、自分を見失う。するととたんに、あなたが料理を味わう主体ではなくなり、あなたの人生は、誰かが味わう料理にすぎなくなってしまう。
魂は、あなたの人生の始まりと終わりの両方を、一種の見取り図、地図、青写真としてもっている。人生の迷路のなかでの「地図」の役割とは、審議ではなく軌道修正である。
魂にとって、死は永遠に身近にある。魂は、「本格的な生まれ変わりが起きないと、この宿主にホンモノの死が訪れるかもしれない」となったときには、ギリギリの方法で宿主の「死」を演出するだろう。
複雑で難解な夢を理解する一つの方法は、それを魂の啓示とみなすことである。夢はわれわれ自身を啓発するために魂によって生み出される一つの芸術の形態である。
夢のなかで死んだ数だけ、人は脱皮して成長する。夢においては、死と再生はほとんど同時に起きる。あなたはその瞬間、文字通り雷に打たれるのだ。覚めた後も、その感覚は消えない。電撃は、死と同時に覚醒ももたらす。

■あとがき

さて、いかがだっただろう。
ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」とトマス・ムーアの「魂理論」の結婚の儀は、つつがなく執り行われただろうか。
結論は、読者ごとに少しずつ違うかもしれない。
ただ、これだけは言っておきたい。理論はあくまで理論だ。
ウィルバーも再三にわたり注意喚起しているが、「地図は現地ではない」。
理論とは地図である。それは現地にたどりつくまでの「道具」にすぎない。アートマン・プロジェクトで言えば、まさに「代用の客体」である。現地こそが「代用でない客体」だ。
現地とは、あなたにしかたどりつくことのできない「人生の最終的な答え」である。
もっと言えば、「インテグラル理論」が「人間とは何か」ということを統合的に描いた地図だとするなら、その場合の「現地」とは、あなた自身である。
私は、夢の王国憲法第五条において、「肉体は船、心は舵、魂は羅針盤。そしてこの船の最終目的地は海そのもの」と述べたが、この場合の「海」とは、あなた自身のことである。
あなたが「道具としての地図」だけ手にして、現地に着いた気になるなら、あなたは道具を使うのでなく、道具に使われることになる。地図を目的として生きることになってしまう。残念ながら、私の知る限り、特に理論に携わろうとする人間には、このタイプが多い。つまり、実践が伴っていないのだ。こういう人は、ちっとも「インテグラル」ではない。
実践が伴わない原因の筆頭は「恐れ」である。タナトスに対する恐れであり、「面」の外に打たれた「点」に対する恐れである。総じて言えば変化(特に変容)に対する恐れだ。人は往々にして、発達の高層ビルの、自分が今いる「階」にとどまりたがる。「その方が安泰だ」と信じ込んでいる。しかし、とどまることの「しっぺ返し」は小さくない。
逆に、理論はいっさい知らなくとも、ひたすら実践を積み上げてきた人ほど、理論への理解度が高い(あるいは深い)。こういう人にとっては、理論は後づけである。つまり、現地に立って、その確かさを地図で後から確認する程度のものになる。
あなたは、現地に立って、地図の確かさを人に伝えるだろうか。それとも、地図だけ見て、現地に行ったつもりになるだろうか。
特にウィルバーのインテグラル理論は、「メタ理論」と言われている。つまり「理論のための(理論に関する)理論」である。それぞれ個々ばらばらに構築された理論を寄せ集め、それらに共通するものをつなぎ合わせて体系化したものだ。その体系がすべてを網羅しているわけではない。「あなた」という「現地」こそが、すべてを網羅しているのだ。つまり、理論の確かさを知ることは、すなわち自分自身をより深く知ることにほかならない。
もちろんウィルバーも実践の人だ。そこが、単なる理論家とは一線を画すウィルバーの凄いところである。ウィルバーが、現地に立って、つまり自分が経験し認識したことだけを用いて、理論(地図)を構築しているだろうことは、書いてあることを読めばわかる。もちろんウィルバーは、自分が構築した面の外に新たな点が打たれることを恐れたりしない。むしろ歓迎するだろう。「地図は現地ではない」ということを、誰よりもよく知っているからだ。
ウィルバーはこう語っている。

『わたしの一つの原則は、誰もが正しいということである。言い換えれば、誰もがわたしも含めて真実の重要な断片をもっている。より広大な、より慈悲のある抱擁のなかで真実のすべての断片は尊重され、慈しまれ、包括されなければならない。
(中略)
さて、いつかわたしの墓に、誰かがこう刻んでくれたら、本望である。「彼は正しかった。しかし、あくまで部分的であった」と』(「存在することのシンプルな感覚」春秋社p.308より)

おそらくトマス・ムーアもひたすら実践を積み上げてきた人だろう。ウィルバーとの違いは、トマス・ムーアは「臨床家」であるという点だ。心理療法の臨床の立場から「魂」について語っている、という点だ。現に、トマス・ムーアは「ソウルメイト、愛と親しさの鍵」の「まえがき」で、「本書は、人間関係を心理学的な問題として取りあげようとするものではない」と明言している。トマス・ムーアは、人と人との関係性には、理論を超えた知り尽くし得ぬ「神秘」があることを心得ているからだ。そういう意味で、トマス・ムーアは常に、ウィルバーの「面」の外に「点」を打ち続けている。
そのうえで、この二人は魂の部分で響き合っている、と私は信じる。

なお、私自身がどのような実践を積み重ねてきたかについては、次の機会に譲りたい。

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