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シリーズ「新型コロナ」その23:人は皆「自分だけは感染しない」と思っている

人は皆「自分だけは死なない」と思っている

■「ウイルス対策なら疫学者」という発想の落とし穴

このシリーズでもさんざん話題にしてきたが、残念ながら日本は感染症対策でいえば、まったくの後進国だった。それは、今までウイルス感染症の流行といえばインフルエンザぐらいしか経験してこなかったからだ。現行の特措法もインフルエンザを前提に作られている。その特措法を、そのまま新型コロナにスライドさせているのが、日本の基本的対処方針である。だからSARSを経験した台湾やMERSを経験した韓国に完全に後れを取った。
その原因は、国民にもあるし、政治家にも専門家にもある。
しかし、もともと日本は災害大国である。阪神淡路大震災の教訓に続き、世界に例を見ない未曾有の地震・津波、そして原発事故も経験した。台風や水害も毎年のように経験している。この先も、巨大地震がいつ発生してもおかしくないと言われている。本来なら防災意識がどこの国よりも高くて当たり前だ。ところがどうも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」式の低レベルの防災意識しかいまだに持ち合わせていないようだ。私も含めてだが・・・。
そんな事情のせいだろうか、日本の新型コロナ対策でまず驚かされるのは、政府が招集した専門家会議の顔ぶれが、ほとんど医学か疫学の専門家ばかり、という事態である。これは、日本政府がやらかした最大のミスのひとつだと、私は思っている。少なくとも、防災学や危機管理学の専門家を最低一人は招集すべきだった。

そこで今回は、防災のプロフェッショナルにお伺いを立てて、遅ればせながらしっかり勉強しておこうと思う。テキストに使うのは、防災システム研究所所長の山村武彦氏の『人は皆「自分だけは死なない」と思っている』(宝島社)という本だ。
この本は、主に地震・津波・洪水・火災などを想定していて、感染症の蔓延は想定していないが、そうした災害の際に、人がどのように行動するか、という部分に焦点が当てられているので、あらゆる災害に適用できる。そこで今回のタイトルを『人は皆「自分だけは感染しない」と思っている』とした。
山村氏が本書で指摘している災害に対する日本人の心理といったものをまとめつつ、それを新型コロナウィルス感染症に置き換えるとどうなるかを見てみよう。
このような心理学的知見をもとに対策を講じるようなことが、医学や疫学の専門家にできるのかどうか、じっくり考えていただきたい。

■防災心理学の観点から新型コロナ対策を考える

〇集団(多数派)同調性バイアス
警報器が鳴っているにもかかわらず、集団でいると、自分だけが人と違う行動をとりにくくなる。皆でいる安心感も手伝って、つい多数派に同調してしまう。
危険だとわかっていながら、ついパチンコ店の列に並んでしまうのは、「わかってはいるけど、みんな並んでいるから大丈夫だろう」という集団心理だ。何のことはない、自分からそういう集団に同調しに行っているだけの話だ。

〇エキスパート・エラー
自分の五感では危険を察知しているにもかかわらず、専門家に「大丈夫だ」と言われると、その言葉を鵜呑みにしてしまう。
新型のウイルスが蔓延する怖さのひとつは、誰もまだ正しい知見を持っていないため、専門家の間でも意見が真っ二つに分かれかねない、ということだ。今回の新型コロナにもそういう傾向がみられる。ある専門家は「インフルエンザ程度のものだ」と言い、ある専門家は「とんでもなく厄介な敵だ」と言ったりする。どちらを信じるか、という前に、この目に見えないウイルスという相手に対する自分の「皮膚感覚」のようなものを信じた方がよさそうだ。

〇正常性バイアス
普通の人はもちろん緊急事態に慣れていない。どうしても平常時の感覚が続いてしまい、「まさか、大丈夫だろう」「他の人も同じようにしているから」といった意識で危険回避行動を取らない。
「不要不急の外出を控えて」「通勤を八割減らして」「県をまたいでの移動を避けて」と言われても、日常的に習慣化されている行動を無批判に漫然と続けてしまう心理の怖さを、私たちはもう一度しっかり認識する必要があるだろう。

〇楽観的無防備
人はある条件下(たとえば、行楽地で気が弛んでいる、など)では、自分に都合のいい情報だけを受け入れ、都合の悪い情報はシャットアウトしてしまい、「この状況で自分に悪いことは起きない」と錯覚する。
今、政府は「自粛要請を段階的に緩め、なるべく元の状態に戻します」と言いながら「3密を避ける、人との距離を保つ、なるべくテレワークにする、といったことを新しい生活様式にしてください」という矛盾したメッセージを出し続けている。
もちろん段階的解除は、地域ごとに適用が異なるはずだが、人は自分に都合のいい方のメッセージだけを受け取り、もう一方をシャットアウトするだろう。
こうしたメンタリティのところへもってきて、段階的・地域限定的であれ何であれ、迂闊に緊急事態宣言を解除するとどういう事態になるか、想像してみるといい。

〇疑似体験による実体験麻痺(異常の日常化)
インターネットなどで刺激的な映像に慣れてしまい、それが疑似体験のようになってしまうと、実際に災害が発生しても心の非常スイッチが切り替わらない。
また、小さな地震が頻発すると、「異常慣れ」を起こし、大きな地震が起きても異常と感じなくなる。
長引く「自粛要請」に、そろそろ誰もが「異常慣れ」を起こしかけている。ついつい心の弛みが生じ、「不要不急」の行動に平気で出てしまう事態も予想される。

〇3割近い人が危険行動を取る
地震や津波災害のとき、避難するどころか、災害現場の様子を見に行くとか、危険な場所にある車を取りに行く、といった行動を取る人が28.6%もいるという。
どれほど行政が「ステイホーム」だの「人との接触8割減」だのと呼びかけても、相変わらず3割近い人は危険を冒し続けるのかもしれない。「8割減」と要請されながらも、いまだに6~7割にとどまっているのには、専門家の思惑に反した理由がある。

〇人は全国放送よりローカル放送の方に強く反応する
全国放送のテレビやラジオは、ある種「バーチャル情報」(他人事)として受け取られやすく、ローカル放送や防災無線などの方がリアルな情報として非常スイッチが入りやすい。
この指摘は非常に重要だ。
今日本政府は「8割減」というメッセージを全国的に出し続けている。私が暮らす小さな自治体でも、役場のスピーカーから一日一回「不要不急の外出を避けてください。人との接触を8割減らしてください。ソーシャルディスタンスを保ってください」といったアナウンスが連呼されている。しかし、たいていの人が電車やバスや地下鉄で移動する人口密集地帯と、最寄りのコンビニに行くのにも車を使わなければならない田舎とでは、「8割減」の目標達成の方法はまったく異なる。全国的目標をただ連呼するだけの地域行政のアナウンスは、「遠くの警報」にしか聴こえない。
中央行政の「8割減」という全国的目標を受けて、各都道府県が地域に合った独自の対策(出口戦略)を打ち出し、市区町村レベルがさらに地元に合った答申を打ち出し、それを住民と共有して、全員で毎日現状をモニターしつつ目標達成に向かうようにしたら、全国目標を特別意識しなくとも、自然にそうなるのではないだろうか。現行の特措法の趣旨も、本来はそういうもののはずだし、企業内ベンチャーの考え方でイノベーションに成功している企業もそういう手法を用いている。
中央行政とは、上からお触れを下して従わせる役割ではなく、地方行政の自主的な取り組みを支援し容易にする(いわば子どもの成長を後押しする親の)役割のはずだ。

〇パニック過大評価バイアス
実は、人は滅多にパニックを起こさない。的確な情報が必要充分に与えられているとき、大半の人が冷静に行動する。パニックが起きるのは、情報不足により人が冷静な判断力を失ったときである。パニックより怖いのは、パニック神話を恐れる人たちが、持っている情報を公開しないことである。
原発事故のときも、台風のときも、行政側のパニックによる情報隠蔽が原因で事態を悪化させた事例が多数発生した。そのときの言い訳は「住民のパニックを避けるため」というのが相場だ。パニックを起こしているのは、情報隠蔽している当の本人だ。
「8割減」の科学的根拠をきちんと説明しない、緊急事態宣言の最初から、明確な「出口戦略」の数値目標を示さない、そもそも専門家会議でどのような話し合いがなされているのか公表しない、といった情報の「出し惜しみ」によって、人はかえってパニックを起こしかねない。行政側の人間は、「この情報を公開したら、皆がパニックになりかねない」と思えば思うほど公開すべきである、という発想の転換が必要だ。

〇認知的不協和
タバコは健康に悪いということを認知していながらやめられない喫煙者は、「タバコを吸っても病気にもならずに長生きする人はいる」という情報に置き換えて、禁煙できない自分を正当化する。
今回の新型コロナでも、「若者は感染しても軽症ですむ」「このウイルスは、インフルエンザに毛が生えた程度のもの」「危険や迷惑は承知だが、これに命をかけている(パチンコ店の行列に並ぶ客の言)」といった「認知的不協和」が、「自粛破り」の言い訳に使われている。

〇「知っていても理解していない」症候群
どこの都道府県の職員も、自分たちの防災対策が充分でないことを知っている。災害はいつ発生してもおかしくないことも知っている。事前に準備しておかなければ、いざというときには間に合わないことも知っている。それでも、実際に災害が起きたときにはどうなるのかを理解していなければ、人は動こうとしない。
今回の新型コロナの場合も、「溺れているような息苦しさ、全身の骨が折れているのではないかと思うほどの痛み」「朝には普通に会話していたのに、夜には亡くなっている」といった症状急変の深刻さ、自分が知らず知らずのうちに大切な人に感染させて死に追いやってしまった後悔や心の痛み、といったものを、私たちはもっと自分事として、皮膚感覚を伴って理解する必要があるだろう。

〇「急に悪くなることはないと思いたい」症候群
バブル経済に翳りが見え始めた頃になっても、人は「急に景気が悪くなることはない」とタカをくくっていた。「でもまだ大丈夫」心理の危うさをバブル崩壊が証明した。
「軽症の状態から急激に重症化する」という新型コロナの特徴は、私たちの油断や慢心をものの見事に突いてくる。

〇集団的手抜き
人は、自分一人に責任があるときは100%の力でやるが、集団で取り組むときは、自己責任感が希薄になる。「自分一人ぐらいサボっていても、後の人がやってくれるだろう。どうせ集団責任、集団評価なのだから」
一方、集団的な取り組みでも、自分の責任が明確なときは、人は手を抜かない。
一部のパチンコ店が相変わらず営業して、長蛇の列になるなら、入店客一人一人に名前と連絡先を書かせればいい。何か文句を言われたら、「もし万が一クラスターが発生したら、全員濃厚接触者として連絡しなければなりませんから」と言えばいい。

〇ヒューリスティックス依存心理
思い浮かべやすいことは起こりやすく、思い浮かべにくいことは滅多に起こらないというバイアス。過酷災害が起きると、「まさか、こんなことが起きるなんて、信じられません」という感想をよく聞く。原発事故のときは、専門家がこの感想をよく口にした。これは、想像しようと思えばできたことをサボっていただけの話。
私たちは、もういい加減「ヒューリスティックス(経験則)」に依存するバイアスを外し、全世界が初めて経験する過酷災害に毎日向き合っているのだ、という自覚を持つべきだろう。

〇アンカリング
アンカリングとは「錨を下ろす」こと。錨を下ろすと、船は流されないですむ代わり、動ける範囲が限定されてしまう。人は過去の事例からの経験則で新しい事例を判断しがちだが、過去に引っ張られず、未来から現在を見ることが大事。
このウイルス禍の最悪のシナリオ(未来に起こり得ること)とはどんなものかをしっかり念頭に置いたうえで、それを回避する対策を粛々と実践しなければならないだろう。
これは心理学や教育学の分野での定石だが、ある人にある行動をやめさせたいとき、その行動を続けるとどんな結果になるかをしっかり認識させることである。

〇蓄える必要がないとミツバチは蜜をつくらない
満たされた環境にどっぷり浸かっていると、危険察知能力や危機回避本能が退化してしまう。特に食料や生活必需品がいつでも簡単に手に入る都市部の住民ほど危機管理・防災意識は希薄。
「日本の危機は、地震や台風が多発する災害列島であることよりも、むしろ、その状態を無視し危機管理の本能をいつまでも持たない日本人の心にあるのだ」(同掲書)
はっきり言っておくが、中央集権型、都市集中型の国造りは、災害多発国にはまったく適さない。

〇価値の優先付け
「防災・危機管理対策は、何を、誰が、いつ、どうやって守るのかということに尽きる。そして、その前提となるのが、守るべきものをきちんと定義することから始まる」(同掲書)
パチンコ依存症の人には、「自分の個人的な気晴らしと、家族の命と、どっちが大事なのか、自分はどちらを守ろうとしているのか」をしっかり自問自答していただこう。

〇「空気」というバイアス
戦艦大和を出撃させるべきか否かで議論になったとき、出撃を無謀とする反対派には細かいデータにもとづく明確な根拠があったが、出撃すべきとする賛成派には、明確な根拠はなく、もっぱらその場の「空気」だったという。その結果「空気」に押し切られ、大和は撃沈した。
誰も人と違うことをしたがらない。誰も自分から先陣を切って新しいことをしたがらない。誰も前例にないことをしたがらない。「空気」とは、「様子見」「調整」「忖度」を材料として作られる。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の空気に逆らう勇気こそが現状を打破する。

〇「知らなかった」と「知ってるつもり」
災害への備えがなく命を落とす人がいる。過去の災害体験にとらわれるあまり、目の前の災害に対応できずに命を落とす人がいる。「以前は・・・だったから」が命取りになる。
特に今回のような、過去に類のない新型のウイルス禍の場合、地震や台風のような一過性のものではなく、長い期間にわたり繰り返し「被災」し続けることになり、しかもウイルスの変異とともに状況が変化し続けるとなると、過去の経験則はいっさい通用しなくなる。常に「今」に合わせて対策を変化させ続ける覚悟が必要だ。

〇アクション・スリップ
普段習慣化している日常的な行動は、頭の中で正しい方法や段取りがわかっているが、いざ非常事態になり、いつもと違う時間の流れになったとき、うっかりミスが起きる。
いつもの道をいつもの時間にいつものスピードで走っていても、対向車が急に右折しようとしたら、あわててハンドルを切り、ブレーキを踏むつもりがアクセルを踏んで歩道に突っ込んでしまう、ということが誰の身にも起こり得る。
日常生活に、目に見えない「プレデター」が忍び込み、知らず知らずのうちに攻撃を仕掛けてくるとなったら、人はいとも簡単に「アクション・スリップ」を起こす。
実は今、医療現場で起きている院内感染という事態も、この「アクション・スリップ」が主因であると言える。普段着け慣れない様々な感染症防護装備を余儀なくされている医療従事者たちは、ほんのちょっとしたうっかりミスも見逃してもらえない、という高リスク、高ストレス状態に常に晒されているのだ。

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