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「トランスパーソナル」とは何か(夢の学び45)

■トランスパーソナルな心理学事典

5月の連休のときに、ブックオフで2割引きセールをやっていたので、久しぶりにブックオフ巡りをした。2割引きだと、普段は買わないだろうと思える本も、ついつい買ってしまう。今回もなんだかんだで10冊ぐらいは買った。それでも足りない分はアマゾンやメルカリなどでピンポイント購入する。それらを合わせると、ここ1カ月ぐらいで合計20冊以上は買っただろうか。
ブックオフ巡りのいい点は、本との意外な出会いを楽しめるところだ。今回も、そういう本がいくつかあった。
その中から一冊ご紹介しよう。

石川勇一著『新・臨床心理学事典——心の諸問題・治療と修養法・霊性——』(コスモス・ライブラリー2016)

心理学系の「辞典(事典)」が欲しかったのでちょうどよかった。
この本はもともと「スピリチュアル心理学入門」というタイトルで出版されたものに加筆・修正された増補改訂版のようだ。実は「スピリチュアル心理学入門」の方も持っていた。
著者は日本トランスパーソナル心理学/精神医学会会長なので、このテーマの適任者ではあるだろう。

■最低限の努力ができていない

ただ、読み始めて、極めて残念な点がいくつかあった。
まずもって、図表に含まれる文字があまりに小さい。私のような老眼世代には「読み取り不可」である。老眼鏡でも間に合わず、ルーペを取り出したぐらいだ。この本の「要」の部分は、図表で表現されている部分だと思うのだが、その肝心な部分が読み取れないのではお話しにならない。判型はおそらく四六版で、少し小ぶりの単行本サイズ。もともとの「スピリチュアル心理学入門」の方はおそらく菊版と呼ばれる大き目の単行本サイズだろう。図表は明らかに、もともとのサイズを単純に縮小して再録している。どう考えても菊版以上のサイズで作るべき本である。

もうひとつ、あまりに誤字脱字が多い。思わず赤ペンを入れたくなった。これは第一に校正者・編集者の職務怠慢だ。私はかつて執筆・校正・編集・版下制作をひとりでこなしていたので、こういう手抜きは許せない。プロとしては、何ら難しいことのない、単なる日常的な努力で改善できる範囲の作業である。私は「コスモス・ライブラリー」シリーズのファンだっただけに残念で仕方がない。しかし、そうだとしてもやはり著者の責任がいちばん重い。
ついでながら、これは学術文献としては致命的なのだが、出典の表記が不明瞭で追確認できない。
総じて言うと、明らかに改訂版の出版のときにクオリティを上げる努力を怠っていて、むしろクオリティが下がってしまっている。

■そこが夢分析のポイントではない

さて、「見た目」に関する文句はこのぐらいにして、「中身」に移ろう。トランスパーソナル心理学系の項目を中心に、最新の臨床心理学のテーマを網羅して要領よくまとめている点では、この手の「事典」の役割をそれなりに果たしている。著者は仏教やシャーマニズムの修行もしている人のようなので、その分野の修養法も紹介されている点もユニークだ。
ただし、項目によっては、「なぜそこをあえて?!」と思わず突っ込みを入れたくなるようなポイントが取り上げられていて、納得がいかなかった。「事典」の性質上、「とても一言では説明し切れないような大きな概念を、いかにポイントを押さえて概説するか」が問われる。つまり、あるテーマに関して、何が根幹の部分で何が枝葉末節の部分かの判断が重要になってくる。そこが著者の手腕なのだが、その点で、概ね要点を掴んで要領よくまとめられているものの、項目によっては「明らかにポイントを外している」という解説が見受けられた。

私としては当然「夢分析」という項目に真っ先に目がいくわけだが、これはどうにもいただけなかった。まずもって、あまりにもフロイトに偏っている。しかも解説文はフロイトの夢解釈に批判的な文脈なのにもかかわらず、「表」では、「定型夢(万人に共通した意味をもつ夢)」とその意味が一覧表になっているのだが、そこでの解釈はあまりにもフロイト寄りなのだ。この手の一覧表を示すなら、なるべく汎用性の高い意味を示して然るべきだが、よりによってフロイト的解釈とは・・・。しかも、夢解釈に関するフロイトの「悪い癖」のようなものが如実に出てしまっている印象さえある。どう贔屓目に見ても、「万人に共通した意味」ではないだろう、と思えるものが列挙されている。
この一覧表に示されている「定型夢」とその意味を、以下に示しておく。
○「裸で困惑している」=「幼児期の露出欲」
○「近親者が死ぬ」=「幼児期に死ねばいいと願ったことのある兄弟や親への感情」
○「試験で苦しむ」=「してはならないことをして受けた罰、するべきことをしていないので、罰を受けるかもしれない不安」
○「追われて逃げる」=「親への恐怖、性的衝動の活動による不安」
○「火事」=「一時的な情熱」
○「空を飛ぶ」=「圧力からの解放、足が地についていない不安定感、自分の能力への自信のなさ」
○「水に溺れる」=「とり残される不安、性的能力への不安」
○「歯が抜ける」=「去勢される不安」
○「泥棒が侵入する」「馬・牛に追われる」「刃物でおどされる」=「幼児期の両親への不安と恐怖感」

ちなみに、これらの「定型夢」に対して私がドリームワークをするとしたら、次のような可能性に関してクライアントの注意を促すだろう。もちろん、これらもあくまでひとつの可能性にすぎないが、読者の皆様は、もしご自分がこの手の定型夢を一度でもみたことがあるなら、その夢の考えられる意味として、上記とどちらが近いか(納得できるか)を比較してみていただきたい。

○「裸で困惑している」=「窮屈な社会的制約から解放されたときの感覚に対する戸惑い」
○「近親者が死ぬ」=「その近親者のイメージやキャラクターでしか象徴できない自分自身の要素との訣別(訣別したい場合もしたくない場合も両方ある)」
○「試験で苦しむ」=「自分自身で身につけなければならないと思っていること、自分で自分を試そうとしている何かに対するプレッシャーや苦悩」
○「追われて逃げる」=「自分を追ってくるものが自分に伝えようとしている事柄に対する無自覚、避けがたい認識を避けようとしている重圧」
○「火事」=「過剰な情熱が破壊をもたらそうとする状況(肯定的・否定的両面ある)」
○「空を飛ぶ」=「自己成長(飛躍)の欲求、自分に対する期待感、冒険心、(飛んでいる際の高度、飛距離、飛行姿勢、着地方法、着地点などは)満たすべき成長の要件」
○「水に溺れる」=「未知なるものを探究することへの恐れや不安、知ったり身につけたりする必要があることへの抵抗感」
○「歯が抜ける」=「物事を咀嚼する土台となる信念体系が新旧入れ替わろうとしている」
○「泥棒が侵入する」=「あなたの心に何か(誰か)が密かに土足で踏み込んでくる」
○「馬・牛に追われる」→「追われて逃げる」を参照
○「刃物でおどされる」=「生まれ変わらなければならない事情を突きつけられている」

■そもそも「トランスパーソナル」とは何か?

もともとこの著者はトランスパーソナル心理学の専門家のはずだ。トランスパーソナル心理学といえば、フロイトやユング以後の新しい心理学的パラダイムである。特にこの場合の「以後」は、「ポスト~」という意味合いより「超(トランス)~」という意味合いが強いはずなのだ。いわば「超フロイト主義」「超ユング主義」というパラダイムであって然るべきだろう。そういう立場の人間が、むしろフロイトの悪い側面をことさらに取り上げるかたちで夢について解説していたのではお話しにならない。
ちなみに「フロイト以後の精神分析」の項目では、まさにフロイト以後の精神分析や心理学の流れを概観する図が示されている。ならばどうしてこの流れを夢分析の項目に反映できていないのだろう。まさに「言行不一致」だ。これは、返す返すも残念だ。

さて、ここからが今回の記事の「ポイント」なのだが、そもそも「トランスパーソナル」とは何か?
単純な話、「パーソナル(個的)」な領域を「トランス(超越)」している、ということである。「個的な領域を超越している」とは、「認知(私は何に気づいているのか)」「自己(私とは誰か)」「価値(私にとって何が重要か)」「倫理(私は何をすべきか)」「人間関係(どのように人と交わるべきか)」「霊性(私の究極の関心は何か)」「欲求(私は何を欲しているか)」「運動感覚(このことを行うのにどう身体を動かすのか)」「感情(これについてどう感じるのか)」「美学(私は何に魅かれるのか」)といった複数の異なる観点において、どれだけ「超-慣習的」「超-合理的」「超-自我的」「超-個的」であるか、ということだ。これが直接その人の「トランスパーソナル度」を示すと言っても過言ではない。
「トランスパーソナル」であるとは、これらの観点にてらしてみて、考えられること、やれることは限界まですべてやり尽くしたうえで、さらにその意識状態を超越する境地に達していることを意味する。
もちろんそれは仕事のやり方にも反映されるはずである。本を作る人間としては、まず第一に、書いてあることに「抜け」や「落ち」がないようにするために全力を尽くして当たり前だ。それでもまだ足りない。次に、書いてあることに「ウソ」がないようにするために全力を尽くして当たり前だ。それでもまだ足りない。次に、書いてあることが適切でわかりやすく効果的であるようにするために全力を尽くして当たり前なのだ。それが全てクリアされていて初めて、内容を「トランスパーソナル」なものにする、という努力がくるはずなのだ。
これはずいぶん厳しい言い方のように聞こえるかもしれないが、たとえばあなたが禅寺で修行をしている小僧だとする。小僧なのだから、指導する立場の人間に、お寺の掃除を毎日全力でやれ、と言われたら、それを全力でぬかりなくやりもしないで、指導者に「禅問答」を仕掛けるような真似をしたらどうだろう。
自分がしっかりやろうと思ったら充分にできる範囲のもっとも基本的なことをサボっていて、トランスパーソナルもへったくれもない。
私が出版物の仕事をしていたときは、とにかく最低でも誤字脱字だけはゼロにすべく、何度も何度も原稿を読み直したものだ。それでも誤字脱字はゼロにはならない。そこはやはり人間のやることだ。それでも、誤字脱字はあくまでゼロにすることを目指さなければ、ゼロには永遠に近づかないのである。
トランスパーソナルな領域のことも同じなのだ。自分に考えられるありとあらゆることをやり尽くし、もう自分にはいかなる開拓の余地も残っていない、となった後でしか、その領域を超える事態は訪れないのである。
誤字脱字を極限までゼロに近づける努力、書いてある内容に抜けや落ちがないようにする努力、書いている内容が読みやすく、わかりやすく、効果的であるようにする努力を極めていないなら、書いてある内容が的確にポイントを押さえつつ、なおかつそれを超えているという状態に達しようはずもない。トランスパーソナルな心理状態とは、意識の持ち方、生きる姿勢そのものが「個を超えている」ということだ。その意識の持ち方、生きる姿勢は、もちろん自分が書いた原稿をチェックするときにも当たり前に発揮されるはずのものである。


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