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ウクライナ問題に寄せて(その2)

「敵」とは、自分自身の「影」にほかならない。


「自分自身」とは何か?

この究極の心理学的命題への答えは、心理学者の数だけ存在する。

しかし、そこにはある共通する見解もある。

それは、「自分」というものを大きく二つのパートに分けるなら、「ペルソナ」と「シャドー」になる、ということだ。地球の昼と夜の関係で言えば、昼がペルソナ、夜がシャドー、ということになるだろう。もちろん、昼も夜もどちらも地球であることに変わりはない。

しかし人間の場合、一般に私たちは「ペルソナ」の部分だけを「自分」として意識していて、「シャドー」の部分は自分ではないと思い込んでいる。

それは、無理もないことなのだ。なぜなら、「ペルソナ」と「シャドー」は、まったく正反対の関係にあるからだ。「私は誰々さんのことが好き」という感情があなたの「ペルソナ」だとしよう。すると、「私は誰々さんのことが嫌い」という感情があなたの「シャドー」として隠れている可能性があるのだ。また反対に、「私は誰々さんのことが嫌い」という感情があなたの「ペルソナ」だとしよう。すると、「私は誰々さんのことが好き」という感情があなたの「シャドー」として隠れている可能性があるのだ。

「まさか、ありえない、バカ気ている」と、あなたは思うだろうか? しかし、あなたが激しい抵抗感を覚えれば覚えるほど、その相反する二つの感情は、あなたの「ペルソナ」と「シャドー」に間違いないのだ。

もちろん、あなたは自分の「ペルソナ」の部分には同意しても、自分の「シャドー」には反発を覚えるだろう。あなたは自分の「シャドー」も自分の一側面だということを認めたくない。しかし、認めなければ認めないほど、その感情は、あなたの内面の出来事として体験されなくなる。つまり、自分の外側から自分に向けてやって来る「何か」として体験されるようになるのだ。

それは、あなたにとって脅威だ。あなたは必死でそれを否定し、振り払おうとする。

やがて、あなたは自分の「シャドー」の部分を攻撃し始める。もちろんそれは、鏡に映った「見知らぬ自分」に対する攻撃にほかならない。すなわち「シャドーボクシング」である。もちろん「シャドーボクシング」は、ただ疲れるだけで、何の成果ももたらさない。しかしあなたはそれを止めることができない。なぜなら、あなたは目の前の鏡に映った「見知らぬ自分」を無視することができないからだ。あなたは、それに強く影響され、それを振り払おうと必死に抵抗し、攻撃を続けるだろう。あなたが攻撃に拍車をかければかけるほど、鏡の中の「自分」も、あなたへの攻撃を激化させるように、あなたには見えるはずだ。その結果、あなたはさらに激しく拳を振り回すことになるだろう。こうしてあなたは、すっかり自分の「シャドー」に振り回され、それに操られてしまうのだ。

敵とは、まさにこの、「鏡に映った見知らぬ自分の姿」にほかならない。

本来、敵というものは存在しないのだ。鏡の代わりに、あなたのシャドーをあなたに見せてくれる他者が存在するだけなのだ。

そのような他者を「敵」とみなし、その存在に脅威を感じ、それを排除しようとして、必死に抵抗し攻撃すればするほど、「敵」こそが、あなたの行動の唯一の判断基準になってしまう。なぜなら、敵の存在こそが、自分のシャドーを自分の一部として認めなくて済む唯一の「言い訳」だからだ。「私は、目の前の実際の敵と闘っているのであって、自分の一部と闘っているわけがないではないか」という具合だ。戦争や紛争において、敵を叩き潰そうとするときの根拠は、すべてこの「言い訳」のバリエーションにすぎない。

この「言い訳」がまかり通っている間は、抗争は激化の一途をたどる。「戦争に勝利者はいない」と言われる所以はここにある。このエスカレーションは、どちらか一方が、このおよそバカバカしい「シャドーボクシング」に気づくまで続く。

「いや、戦争が終結するのは、シャドーボクシングに気づくからではない。人的・経済的損失のあまりの大きさに引き換え、得るものがあまりにわずかであることに気づくからだ」とあなたは言うだろうか。しかし、それも言い訳にすぎない。


さて今、地球にとっての昼と夜の関係性は、人間界では、西側諸国と東側諸国の関係性にすっかり置き換えられているようだ。いや、これは今に始まったことではない。かつて世界情勢がそうではなかったことなどないのだ。

西側諸国は、「私たちの社会こそが、真の民主主義であり自由主義である。それに対し東側諸国は、共産主義・社会主義という名の強権体制にほかならない。だからひとつでも多くの国が、私たちのような社会体制に変換すべきだ」と言うだろう。

しかし、歴史の「シャドー」をよく見ていただきたい。西側諸国は、たとえどの国であれ、かつて一度も強権を発動したことはないと言えるだろうか。そして、今はどうだろうか? 強権の発動の仕方が、たとえ国が国民に対してではなかったとしても、他国に対してはどうか?

どのような「言い訳」があるにせよ、いったい何の権利があって、ある国が他国に(それが経済的か軍事的かにかかわらず)制裁を加えることが許されるだろうか。「侵攻」は許されないが、「経済制裁」なら許される、というのはおかしな話ではないだろうか。

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