「おたく」になりたい人へ

一番好きなガンダムはどれですか?
と聞かれて「00です」と答えたら「そんな人だと思いまでんでした」でブロックされた理不尽な経験があるんだけど、ツィッターなんてのはそんなものだと言うのはさておき、好きなものに正解もクソもあるか、と言うのはあると思うんだよなぁ。
何を嫌うか、ではなくて、何が好きか、で、こんな事やってるんだけども、「○○であるためには△△を否定しなければならない」って言うのは最早思考停止であって自由意志が無いでしょうよ。苦行のつもりで見てるなら向いて無いんだよ。

海原雄山や山岡士郎を見て、「ダメな食べ物を否定する人」=美食家であると誤解する人がいるのだけど、美食家と言うのは「美味しい食べ方を知っている人」の事であって、前者はただの偏食と違うんかいな( ´△`)

楽しみ方を知っている人、になりたいなら、否定の仕方の前に肯定の作法を知るべきであって、その上で慎むべき事物を学ぶ事になるのよ。

最もお手軽な修行とは「しない」事であって、どうも「○○を志しているので△△は嫌いです」という人には般若心が足りんと思ってしまうのでありすま。

言うて、時間を経るごとに見る作品も経験も増えて行くから後学には不利だってのは分かるんだけど、なんて言うのか、曹洞宗の開祖道元は、選択と易行の時代(難解な教学や作法の中で最も重要な部分を抽出した天才達が下野して一気に日本中に仏教を広めた時代)において「うるせぇ!俺は仏教が好きなんだ!出来うる限り全部受け継ぐんだよ!!」と言うスタンスを貫いた。詳しくは『正法眼蔵』でも読んで下され。

そういう人達だからこそ、何かについて質問されたり取材されたりする信頼感があるんでないのかなぁ。

と、言う話は毎度しているけれど、「いや、自分仏教に興味無いっすわ」な奴が多くて…いやいやいやいや、それこそアニメばっか見ててもダメだぞってヤツで、そんな奴に凝った趣向を見せても絶対に理解して貰えない。それじゃ張り合いもリターンも無いから凝った物作りをする人が減っていく一方でしょうに。

何をもって意義ある表現とするのか?
と言う問い常に感じる危うさは、或る社会に置いて意義があるとされる表現の枠組みは、その社会の構成員の知識や教養の度合いによって広くも狭くも深くも浅くもなるので、意義のある表現の範囲を明確化しようとする風潮は、それが限定化・狭隘化を志向するものである限り、社会の知的文化的衰退の危険信号であると思うからだ。

例えば、萌え云々は、ドジ、メガネ、性格の難など、基本的には否定的な要素に愛着を見出す文化な訳よ。これを否=火の発見に例えれば、あくや渋みや毒を火による加熱調理法の発見によって可食物を増やして行く事で人類が活動範囲を広げてきた様なもので、萌え(燃え)の発見と否(火)による加熱調理法の発見こそがこの文化のキモでもある。食わず嫌いどころか、「食べられるようにする」営みの継続でここまで来たのだ。

かねがね、初めて肉を焼いた奴と焼肉に白米の組み合わせを考案した奴にはタイムマシンが完成し次第何らかの賞を贈るべきだと主張してやまない私からは以上です( ´△`)

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