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一人旅は、その地の本来の姿を垣間見れる

会津若松の中心地からお墓のある方角へ自転車で移動するごとに観光客らしき人の姿は徐々に減り、すぐそばでは地元の人の暮らしが営まれていることを肌身に感じる静かな住宅街の奥にたどり着きました。自転車を駐車場らしき場所に停め、森の木々の葉が擦れ合う音しか聞こえないような天寧寺の境内を抜けて、ちょっとした山道を歩くこと約10分。新撰組局長・近藤勇のお墓に到着しました。

以上は今日の会津若松観光の一幕です。

初めて1人旅をした時以来、自分は1人で出かけたり、1人旅をすることに躊躇しない性格です。もちろん誰かと一緒に出かけて、見たもの経験したことをその場で「すごいね」「楽しいね」と共有する時間も大好きなのですが、本当に行きたい場所には自分1人で行きたいと思う時もあります。

一緒に出かけて感情の共有をなすと目にする史跡が、ただ自分たちの感情を揺り動かすための“コンテンツ“のようで、ずっと昔、あるいは少し前、そして現代に人の営みがある場所ではないように感じてしまいます。そうして“消費“をしてしまうことは、歴史に対する冒涜というか、歴史を蔑ろにしているようで気が引けてしまうのです。歴史を知るために立ち寄ったはずが、何も自分の中に残らない。とてももったいなく感じます。

一方で、自分1人で立ち寄ったら感情や考えを共有する相手がいないからこそ、自分の内側でそれらが反応して、自分なりの解釈が内側に残り続けるように感じます。それに、本当の姿はその地で長年暮らさなければ見えないと思うのですが、1人ならば静寂が故に“観光地“ではない本当のその地の姿の一端を垣間見れる気もします。

なんてかっこいい(?)ことを語っていますが、初めての1人旅では2週間の旅程の半分ぐらいの時に寂しさのあまりボロ泣きで友達に電話してましたし、友達と一緒に色々な場所に遊びに行くのも大好きです 笑
特に一緒に出かけた時には、自分の知らないことを相手が知っていたり、同じものを見ても全く異なる感想を互いに持ってそれを共有することで1人では気づかないことに気づけたりするので、そういうのもすごく大事だと思ってます。

それでもしばらくは、何か真剣に向き合いたいもの場所にこそ、自分は1人で出かけて行くと思うのです。

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