空手の名人

 先日、医院の待合室で見た新聞によると、毎年十月二十五日は「空手の日」と定められているという。初耳である。
 沖縄の空手は、中国の武術を一部取り入れ、およそ七百年前に現在の形に完成した。空手人口約五千人で、実際に演武している人口は一千万人といわれる。世界百五十ヵ国に普及し発展した。

 こういう記事とともに、空手の歴代名人というか、達人といわれる七、八人の人物の写真が載っていた。その中に通称チャンミーグワ(以下、通称でお呼びします)こと、喜屋武朝徳氏も羽織袴姿に威儀を正して写っていた。見おぼえのある御顔には、昔の面影が残っていた。

 あの頃(昭和15年)、チャンミーグワといえば、名うての空手つかいとして近郷近在に知られていた。チャンミーグワとは、チャンは姓のキャンがなまってチャンになったと思う。またミーグワは目が小さく細いので、その方言のあだ名だろう。小柄でひきしまった体格の持ち主であった。
 チャンミーグワさんの住まいは、読谷村比謝矼のたもとにあった。近くの嘉手納の農学校では、ある日、チャンミーグワさんを招待して、講堂で空手の実技を見せてもらうという催しがあった。

 当時、チャンミーグワさんは、作務衣の様な軽装で、気さくに来校された。ひととおりの講演を終えると、いよいよ実技の披露である。校長はじめ職員生徒一同は、固唾を飲んで見守った。
 まず、空手の型からはじまり、一手一足動くたびに、衣擦れに合わせて、骨がブスッブスッと鳴った。このあたりまでは、今でもテレビに映る青少年の空手大会などでよく目にする光景である。

 演武の見せ場は「ヤッ!」と裂ぱくの気合もろともに、空中に二メートルほど飛び上がり、クモが天井に張り付いた形を模した一瞬の早業であった。つまりチャンミーグワさんの四肢が、クモの脚のように広がり、クモが上から見下ろしている形をとる。そのまま、一、二秒静止したように見えた。

 これには目を丸くした。まるで映画の忍者のようなワンシーンである。空手というものが、そんなに高く飛び上がり、鳥瞰(高い所から見おろすこと)の姿勢をとるとは、思いの外であった。

 チャンミーグワさんは、そのころ四十代の壮年期と見たが、この実演から推して噂に違わず、空手の名人にふさわしい存在と思った。

『どっこいしょ八十余年』より(2007年発行)



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