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「感覚」が「ことば」にできない(後篇)

ある日の思考タイムに「感覚」を「ことば」にできないと泣いてしまったことについて、メンターにコメントをいただいた、というところまでが前回の記事でした。話を聞いたときは、なるほど、とおもって、今でも興味深い解釈であることには間違いないとおもっています。特に基準の話は、果てしないからこれからもきっと「うーーーーー」と苦しむんだろうけど、それでいいんじゃないかとおもっているわたしがいます。むしろ苦しみたいんじゃないかと。

いろんなひとたちが、なんとも他人に伝えるのが難しい「感覚」というものを、ことばにすることに挑んで、モヤモヤしながら表現しているひとたちもいっぱいいて、わたしのそんな彼らのうちの1人に過ぎない、ということ。それを受け入れて、苦しみながら、たのしんでいけたらいいのかもしれないね。泣いたっていい。たぶん、泣くことでもっと深いところに行ける気もする。

わたしから出た「ことば」が、わたしのものであるかどうか、ということについては、うーん、やっぱりわたしのものなんだとおもう。わたしの一部。アーティストの作品、というとカッコつけすぎ感が出て恥ずかしすぎるけど、だからこそ、できるだけいいものを、ってなる。執着しすぎてるのかな。ここに書いていることも「もうちょっとなんとかならんかなー」とおもいながら書いている。ここに書く記事については、書くこと自体に価値を置いているから、あまり気にしないようにしているけどね。とりあえず、書く。

ここしばらく、ことばについて考えてばかりで、そうなると、非言語なものに触れたくなってきて、友人のクラファン支援でバイオリンの演奏を聞いたり、夜中にピアノを弾いてみたり、美術館に足を運んでみたり、ノンバーバルなものと交流してみています。アーティストって、非言語のものを、非言語で表現しますよね。そういうものに触れると「あー、無理にことばにしなくてもいいよね」と安心するところもあったりします。大切な時間。

ここでは言語化したものをつらつら書くけれど、どこか別の場所で、ことばではない別のなにかで表現してみてもたのしそうです。きっとやります。というか、もうすでに1つ、やってみて「あ、これってそうだな」と気づけたので、やっていきます。その中でまた新たな発見とかあったら、またつらつら記事にします。これでまとまったかな?笑。後篇、おわり!

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