★映像作品における画面内フレームと画面サイズ:まいにち100字【21日目】

 アニメOPなどの映像作品には、時折、画面内にフレームが現れることがある。今回はその意味や機能について考えてみよう。

①「蒼穹のファフナー」OP(2004年)
 最も基本的なパターンだが、気を抜いていると最後まで見ないと気付かないフレームである。Aメロに入ると共に、上下に空と海のフレームが現れる。サビ前の部分でフレームが消え、人物のアップになりサビに入るが、ここでまたフレームが復活する。映像の最後に、大きくフレームをはみ出る形でロボットが前に出る。こうした表現によって、映像の流れにメリハリが付いている。
 同様の用法は、月ノ美兎『アンチグラビティガール』2番サビ部分でも応用されている(2020年)。より簡素な白いフレームであるが、フレームをはみ出すことで文字や物体を強調したり、奥行きを演出している。

②乃怒亞女「Conclude:another style Abyss-infinite rhyme」(2001年)
 ①の場合、フレームはあくまで映像を補強する役割を果たしていた。つまりフレームは必要不可欠ではなかった。
 しかし、乃怒亞女のこの作品の場合、フレームは多くの場合、乃怒亞女自身の小説や詩の引用を囲いこむ形で存在している(①の用法もあるが、1箇所ほどしかない)。この表現は、視聴者の深読みを誘うように思える(なぜフレームがあるのか、という問いにシンプルに答えられない)。
 また、ポルノグラフィティ『サウダージ』Bメロ前半部分で、フレームが内側に向かって変形する。この動きも説明が難しい動きである。素朴に言えそうなのが、この場面でBメロの盛り上がりと共に一気に画面の情報量が増える。この情報量の増加に役立っているとは言えそうである。しかし、謎めかした外連味のある表現のように思える。

③Savas & Sido「Normale Leute feat. Marteria」(2017年)[Dir.Chehad Abdallah]
 ①も②も、フレームは既存の画面サイズ内で、どう画面を切り抜くか、という思考に基づいていた。
 しかし③では、そもそも媒体によって画面サイズが異なるということに注目している。4:3や正方形、YouTube適正のサイズ、シネスコ、スマホ用など、様々な画面サイズが登場する。この表現により、既存の画面サイズが相対化されている。
 また、このPVの依拠しているであろう形式主義的、分裂的な美学にマッチした表現とも言えよう。

④ぴろぴと[nana825763]「username:666」(2008年)
 ただし、③はYouTubeという媒体を疑い、はみ出すにまでは至っていない。そうしたはみ出しを擬似的に行っているのが、この作品であろう。YouTubeの動画が意思を持ち、パソコンを乗っ取っているかのような映像の終わりは、YouTubeの動画フレームから誰かの手が飛び出す、という形になっている。
 このとき、我々と動画を分かつはずだったフレームは機能を失い、現実と想像が繋ぎ合わさってしまっている。フレームがあるからこそ、我々は動画を安心して観ることができるのである。筆者は、これを動物園において、動物と我々を隔てるガラスと類比できると感じる。それが消えてしまうとき、飼い慣らされ観察される対象だった動物は、恐怖の対象へと変貌する。

 ちょっと遠いところまで来てしまったが、このように、画面内フレームの問題は、映像の中にある映像といった問題に繋がっている。哲学的には、絵画や映画におけるフレームの問題を応用することもできるかもしれない(フーコー、デリダ等)。

 今日はここまで。おわり~。

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