★夢月/金魚坂論争と漂流者、止まり木としてのVTuber?:まいにち100字【28日目】

自分が半年前に書いた、夢月ロアと金魚坂めいろの文章A(未公開)を読んだ。当時は自信がなかったが、いま読んでも十分面白いので、どこかのタイミングで公開したい。ただし、教訓めいた側面と難解な記述が含まれているので、そこは別に公開するか、削除しようと思っている。あと、金魚坂めいろについての理解が足りないので、もう少し勉強しないといけない。

この文章Aは、夢月ロアがキャラクター(RP)に拘泥する理由を部分的に解き明かしており、非常に面白い。キャラクターという演劇を完成させるには、彼女の訛りとファンの承認が必要であった。金魚坂めいろの行為は、こうした連帯を破壊するものであったから、夢月ロアはあまりにも過剰に反応したのだった。詳しくは後日どっかで掲載すると思うので、なんとなくウォッチしといてください。

対して金魚坂めいろは、VTuberである必要性を最初から感じていないように思える(これは彼女がRPをしなかった、ということを意味しない)。金魚坂めいろにとってVTuberは、インターネット上における宿(役柄)のひとつに過ぎず、本質的なものではない、と考えているかもしれない。「金魚坂めいろ」を辞めたとしても、他がある、代替手段がある、という考え方があったのではないか。筆者がこういった発想に至ったのは、年末から2月末にかけて楠栞桜に関する小論を書いたからだった。

楠栞桜もまた、守るべきキャラクターや、VTuberとしての目標を持たず活動しているVTuberであった(そういった意味では、金魚坂めいろより露骨である)。彼女にとって重要なのは、目の前のファンと自分の衝動/感情、数字であって、演劇やVTuberの構造(や秘密)ではない。そのため、全くどうでも良い匿名の書き込みを行って、様々なチャンスを潰してしまった。そして今もインターネットの海を漂流し続けている(楠栞桜は、漂流者や永遠の転校生というイメージが合う)。その点、金魚坂めいろは自分の活動を続けているようだし、楠栞桜より格段に器用である。

もうVTuberは終わるのではないか(VTuber終末論)、ということを杞憂する段階ではなくなっている。VTuberの社会的実在性はすでに高まっており、むしろ現実問題として、どういった点が他の表現手段と代替不可能なのか、そういった点を明らかにするべきだろう。そうした観点から、筆者はVTuber研究から配信者の研究にシフトしつつある。

この文章Aは、VTuberに対するロマン主義的な態度を排し、ある程度現実主義に徹している点で評価できる。VTuberの書き手は、あまりにもVTuberに入れ込みすぎて、VTuberはあたかもこの世のすべてを解き明かす鍵であるかのように書きすぎる(筆が滑る)。おそらくそうではない、と筆者は考えている。VTuberは別の生き方の選択肢ではあっても、すべてを解決しない。
(*繰り返すように(どこで?)、筆者はモーションキャプチャの指標性こそがVTuberの代替不可能性だと考えている。しかし、聖骸布がフェティッシュの産物でしかないように、この指標性もまた、フェティッシュの一種ではないか、とも考える。詳しくは後日書く……かも。)

完全にとりとめがなくなったが、要するに文章Aおもろいじゃん、というのとVTuberという枠組みで書くの心が厳しくなってきたな……、ということでした(そうなのか?)。

おわり❗️

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