いいかげんの良い加減
今読んでる本によると、
世界の文化は、ルーズな文化とタイトな文化というふたつに大まかに分類できるらしい。
日本はタイトな文化であり
アメリカはルーズな文化である。
文化にタイトさとルーズさが生まれる要因は様々で、例えば
人口密度。災害の頻度や他国と領土を争う回数が多いか否か。宗教や民族の多様性など。
私はアメリカ人の父と日本人の母の元に生まれた。
だが、家の中に渦巻く日本とアメリカ、父と母の文化は、上手く融合されていたとはお世辞にも言えない。
正直に言ってしまえば居心地が良くなかった。
例えば、
食の質にタイトにこだわる父と、
安く沢山食べれればいいルーズな母
例えば、
酒、タバコ、ギャンブル、浮気や不倫などの関係にタイトな母
これら全てにルーズで、子供の教育への影響を全く考えられない父
それぞれにそれぞれが譲れないタイトさとルーズさがあり、
それぞれが相手に対してステレオタイプ化された文化的理想ばかりを見ているように見えた。
それ故に糸を張る様な緊張関係が日常にあり、
酒が入ったり顔も言葉も交わさない冷戦の限界を迎えればプツンとそれは爆発する。
ある種、私と兄はそのバランスを担うために
私はタイトさを
兄はルーズさを
背負っていたように感じる。
泣かないように、掌を握りしめて震えながら怒る私と
怒らないように、ヘラヘラと笑いを作ろうとする兄
どちらもどうにかバランスをとろうとして戦っていたのだと思う
私たちは互いを尊敬しているようで憎みあっているのかもしれない。互いが最も欲しくてどうしても手に入らないものを互いが持っているから。
どちらも、なりたくてこうなったんじゃない、と。
時を経て、家族なんてものがまやかしであることを、そういう受け入れたくないことも、それでもそれは、そこにぬうっと立っていて、抗えない事実だということを、嫌でも理解してしまってから、
私は変わった。
私はルーズな人間であった。
部屋は散らかっていた方が落ち着くし
お金はすぐ経験に替えてしまいたくなるし、
本は読むより買う方が好きだ。
何事もちょっとかじって続けられない。
緻密な計画を立てることよりも、思いつきでキャンバスからはみ出る絵を書くことが好きだし
ひとつのものもひともを長らく愛せないと思う
今の私は、私の中で、そういうルーズな哲学があることを知っている。
禁忌だったそのルーズさを、ずっとそこにあるものだったと、手に取ったことによって
私は昔より息を吸って、吐くことができるようになった。
実際にも、以前より、動悸を抑える薬に頼らなくなった。
タイトな社会では、ルーズな価値観が正規ルートに則っていないかもしれない
どっちつかずであること
曖昧であること
計画や選択や回答に「すきま」をつくること
白と黒に分けることは、時にやり直しを効かなくしていないか。
あのころの完璧さを諦めて、
ある種のいい加減さを身につけて生きていく
目標まで、一直線に進まなくたっていいじゃないか。
道草を食べて、寄り道して、
そこで小さなきらめきをあつめる。
そういう人生のすきまやゆとりこそが
人生の楽しみなのではないかと。
目標は達成したら終わりだが、
道草は続いていく。
随分長らく私はタイトに生きてきた。
ルーズな本質を、怒りという強い感情によって起こる刹那的なモチベーションでひた隠して。
私にとって、物事というもの全てはふと、どうしようもなく憧れて、思い立って、始めることが何よりも大事で、続けることにも上達することにも、さほど興味がなかった。
新しいものに触れる、感じる、ただそのプロセスと感情の揺らめきが好きなだけだ。
時にそれはいいかげんだ、という顔をされるかもしれないが、
私という人間は、今現在、20歳の私という人生の哲学の中では、
その隙間は私にとっては良い加減なのだと思う。
社会にとってはそれはどうかわからないけれど
とりあえず、まあ今は、
それでいいかな。
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