家康と秀忠に見る「理想的親子関係」

徳川幕府初代将軍・徳川家康は、1572年暮れに起きた三方ヶ原の戦いにおいて人生最大の敗北を喫しました。
        
 
その中で家康の身代わりになって討ち死にした古くからの有力な家臣・夏目吉信がいました。
   
かつて敵であった吉信を家康が罰するどころか重用した恩義から、今度は身を挺して家康を守ったという有名なエピソードが現在も語り伝えられております
...エッ、夏目漱石は子孫らしい⁈(たった今知った)
       
話は戻り、こういった経験を通じて、家康は「負けることからも学ぶことがある」という教訓などと合わせ、「恩に感謝する・報いる」気持ちが人並み以上に強くなった事は容易に想像されます。
後年、吉信の子の不祥事も不問にしたとか⁈
 
さて、次に家康の息子、のちに第二代将軍となる徳川秀忠の話。

     
彼は長男ではなく三男。
「誰を自分の後継に据えるか?」という葛藤が父・家康にはかなりあったようであります。
ちなみに長男と次男はそれぞれ「自害」「養子」だそう。
 
加えて秀忠は父のような人望の厚さ・恩義への強い執着があったわけではなく、関ヶ原の戦い・大坂冬の陣の両方で戦場に「遅刻」するという失態?もあったそうです。
 
他方で家忠は父・家康のような人望や恩義を持ち合わせていなかった面もあります。

要は父ほど「周りの目」を気にしなくてもよかったわけです。
それはそれで良き方向に向かうこともあります。
 
これが如実に現れたのが、父・家康の死後に様々な改革を断行した点であります。
「親の面子を潰す」という考えも出来ないわけではありませんが...
 
例えば、諸外国の入港地を制限した政策がまさにその後の「鎖国」につながっていったわけです。
1616年の「二港(平戸・長崎以外)制限令」ですね。
 
私が聞き及ぶ範囲ですと、家康は自分と同じ度量を秀忠には求めませんでした。
さらに秀忠も、自分が父に及ばない、と言いますかいい意味での「自分は自分」に徹した節があります。
 
もしも家康が秀忠に自分と同じ道を進ませようと躍起になったとしたら?
秀忠の名前は今の我々にもっと強く残ったかもしれませんが、果たしてそうしたら今がどんな世の中になっていたでしょう?
 
私は家康親子の「距離感」がちょうど良かったことが、のちの徳川「長期政権」につながったと信じてやみません。
 
江戸時代は260年あまり続きましたから、明治時代が始まってから現在よりもまだ長いのですし、「安定した世の中」という意味でも江戸時代の方が盤石だったと言えないでしょうか?
 
今、とても盤石ではない⁈
 
しかるに、徳川幕府の時代から学べることは多々あると思いますし、その最たる例が家康・秀忠の親子関係ではないか?
 
血がつながっていようと相入れる部分はあくまでも適切に、お互いの適性や信条・心情は十分に尊重しあった上での関係を我々も模索出来ないか?
 
歴史好きの端くれとして検証してみたいです♪
 
では
 
#家康  #秀忠 #夏目吉信 #漱石

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?