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私が文章を書くことを止める日

同じ味の料理

先日こういうことを呟いた。

これはAIが作った文章や画像を多く眺めているうちに気付いたことだ。

AI生成物は隙が無い割にどこかおかしいという、奇妙な雰囲気をまとっている。どれも人が持つ個人の揺らぎのような、個性に欠けたものを感じていた。

さらに、現在のAIについての評価として世間一般では「当たり前のようにウソ吐く」、「使い方には注意しなくてはならない」との文言であふれている。

だから私は、AIがどんな文章を書こうがどんな絵を描こうが、それはAIが作った物として人が作ったものより価値が劣るものと思い込んでいた。



AIと代わる仕事

しかしここ最近、AIによって直接仕事が奪われる、又は仕事の範囲が縮小されるという話をよく聞くようになった。

・ライター業を営んでいる人の話

・こちらは中国のイラストレーターの話

こういう話を現実で聞くと、さすがに少し危機感を覚える。

これまでのAI生成物界隈は「自分で作るオタク」が主流だったので、どんな凄いことが出来たかを個人が発表し、それを元にまた別の人が研究を重ねるというある意味牧歌的な世界観を共有していた。

しかし、↑2つの事例に出てくるのは「(対価を払って)他人を使うビジネスマン」である。

個人の趣味と、集団のビジネスでは大きく価値観が異なる。

効率を求めるビジネスにとって、今さらこんな便利なものを手放すことが出来るだろうか?
もう帰還不能点ポイントオブノーリターンpoint of no return)は過ぎ去ってしまったかもしれない。

これは人によっては、AIが協力的な隣人から、仕事を奪う他者へにもなり得ることを如実に示してくれている。



個性とは最も尊重されるべき価値観?

冒頭でも書いたが、AIが作るものにはまだ「個性」が無い。
そして私の文章は「私」と言う個性によって味付けされている。

個性とは、個人が生まれてから現在まで得た知識と経験、感じたことの複合であり、少なくともAIが感情を獲得したという話はまだ聞いてない。

だから個性とは人が持つ強みだと思っていた。

そして他の人にとっても、個性とは価値あるものととして認識されているに違いないと思っていたようだが、時と場合によるようだ。

AIによってできることが増える限り、その範囲も拡大している。



文章を書くことを止める日

AI生成物に個人の個性をどう味付けするか、今現在はその工夫の仕方が試行錯誤されている。

設定や性能が向上することで、いずれ成長した人間と同レベルかそれ以上のことが出来るようになるだろう。

世の中にAIの出力物が溢れ、我々は消費者としてただそれを眺めているだけでよくなった場合、思索することそのものも重要と思わなくなるかもしれない。

だから私は、人間に残された最後のものが「考えること」という意見にはあまり賛同していない。(今ですら、他者に意見を聞いてイイネボタンを押して意思表示するだけで満足しているのだから)

自らが考え書いた文章がAIに叶わないと感じたとき。
または、今日書いたこの文章をすべてをワンボタンでAIに出力してもらえるようになったとしたら、私は文章を書くことを止めるかもしれない。

自分たちは価値観の変化の分かれ目にいる。

何らかのアクションをいただけると、一人で記事を書いてるわけではないのだと感じられ、嬉しくて小躍りしちゃいます。