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機械とどう向き合うか(人間編)

正直なところ、この手のAIに○○させてみて人間と比べてみました系の記事にはもう食傷的なのだが、

もう自分に生み出せそうにないものを生み出せたなら人間だろうと機械だろうとすごいし、趣味に合わないなと思ったら私は受け入れないで良くないw?

合理性こそAIの行動原理であって、非合理的な人間とは元々土台が異なるのだから、この手の記事に統一した答えは見つからないと思う。


アーティストと技術者との間で、なぜこうも反応が違うのでしょうか?

多分評価の軸が異なるからだろう。

作られたものの評価ってさ

・「それ」そのものの価値
・観察者である”わたし”と同じ「人間」が生み出したという価値
・ものを生み出したその人の「個性」に対する価値

みたいに軸が色々重なって評価されているんじゃないの?

その中で技術者ならそれそのものに評価を置いたのだろうし、芸術家なら同じ人間としての軸か、それを生み出した個性に重きを置いたのだろう。

例えば形の良い工芸品を日々生産する機械を褒めたりする?
普通は褒めないでしょう(普段からその機械に接していて、愛着を持っている技術者でない限り)

早い話好みである。これもまた非合理的


少なくともAIは発想力の点で、人間の考えには遠く及ばないと感じている。

1と1を組み合わせて別の1を生み出すようなひらめきがなければ、すし屋で醤油瓶舐めるようなこともしないw

何度も言うように、そこに合理性があることがAIの行動原理だと思うのよね

わたしの好きなゲームの一つ「デトロイト・ビカム・ヒューマン」で印象的なシーンの一つに挙げられるけど、

人間に追い詰められたロボット(AI)達は、奇しくも「歌を歌う」という非合理的な行動を取ったことで、(その内に存在するかもしれない)人間性を人間に訴えるに至った。

機械に対して何らかの感情を覚えることができるのは、非合理的な人間が持つ美徳の一つだと思うよ。(他の感情ある動物でも同じ例があるのであれば是非知りたい)

機械がどう行動しようと、わたしは先ず機械に愛着を持って接していきたいと感じているし、これからもそういう付き合い方ができればいいと願っている。

何らかのアクションをいただけると、一人で記事を書いてるわけではないのだと感じられ、嬉しくて小躍りしちゃいます。