鏡の画質
・本屋にて。宗教ごとに棚が分けられているが、これを並べた店員さんは気が気じゃなかったろうな。他の宗教に対して寛容であることと、同一視を許すことはまた別だろう。この宗教と一緒にしないでくれる!? みたいな苦情がわんさか舞い込みそうだ。
・領収書に袋代を含めていいか確認された。気が利き過ぎている。袋代が入ってるから経費にならないという事態が起こりうるってこと? 世の中ってそんなに厳密なんですか。
・『ボストンバックには3日分の服とあの子の写真』とんでもない歌詞だ。こんなこと書いていいのか。
・『まだ浅瀬 沖にて待ち合わせ』
良いリリックだね。
・サイゼリヤのプリンがうまい。相当うまい。
実は、僕はプリンという食べ物自体にピンと来ていない。食べれば美味いのだが、わざわざ自分から選ぶことはない。特に固焼きプリンがイマイチ。
ではサイゼのプリンはなぜうまいのか。他のプリンとどこが違うのか。
ひとつ、卵の味がしない。口に入れた瞬間に、コンデンスミルクのような濃厚な甘味が広がる。
ふたつ、カラメルが苦くない。香ばしい風味だけが通り過ぎていく。
つまりは本格的なプリンではないのだろう。プッチンプリンをさらに甘くしたような、甘々スイーツプリンなのだ。
だからどうした。美味いもんは美味い。
・ベローチェにふちねこが帰ってきた! レシートを4枚集めると1匹もらえる。ふちねこのためにベローチェに通う日々がまた始まるのだ。前回はハロウィンだったか?
レジ横にふちねこレシートが捨てられている。信じられない。俺はこのレシートのためにベローチェに来ているんだぞ。回収してまわりたい。
・昨日の自分と今日の自分が連続しているとは思えない。意識が途切れているんだから、入れ替わっているかもしれない。まあ昨日というのは多少オーバーだが、「5年前と言ってることが違う!」みたいな糾弾を見かけると、そらそうだろと思う。気が変わったんです、で済む。
・悪人は凡庸、とはよく言ったものだ。思えば戯言シリーズに登場する美人女刑事、佐々沙咲さんも独白していた。現実に起きる殺人事件は、そのほとんどが突発的で衝動的な犯行動機によるものである———と。いわゆる「カッとなって」というやつだ。普通に考えたら殺人なんて損なのだ。そんな理性を暴力的な衝動が上回ってしまうような、粗暴な単細胞が事件を起こす。知的で美学を持ったシリアルキラーなんてのはフィクションだけの話だ。現実は小説より奇なり、の反例である。
・ガラス越し の わらび餅 yo
・「好きでやってんだから文句言うな、嫌ならやめろ」という暴論。これって趣味に本気で取り組んだことのない人間の発想だ。好きで始めたことでも、好きで続けてるわけじゃないんだよ。もはや好きとか嫌いとか、楽しいとかつまらないとかの話ではなく、ただやらなきゃいけないからやってるだけなんだ。死ぬほど疲れてる日でもギターは練習しなきゃいけないし、ダーツも投げなきゃいけないし、水槽のメンテナンスをしなきゃいけないわけ。
・俺は個性には興味があるが、人間同士の関係性にはあまり興味がない。漫画の1ページ目に記載されている相関図もあんまり読んでない。個性は他者の干渉抜きで定めるべし。
・プロフィールに「教え魔おじさんですw」とある類のアカウントが嫌いだ。
教え魔というのは、頼まれてもないのに人に教えたがる迷惑な人のことを指す。それを自称し、wを付けることで茶化す精神性が気に食わない。
何笑ってんだ、反省しろ。もしくはwを付けずに吹っ切れて暴れ回れ。冗談っぽくプロフィールに書いて、あわよくば受け入れてもらおうとするな。
これはもっと広域に適用できる話だ。自分の悪いところを自覚したからといって、周りがそれを許す道理はない。
「教え魔おじさんですw」「そうですか、迷惑なので出禁です」というのが本来あるべきやりとりである。
・旅行に際して荷物を選定するのが好きだ。無駄を削ぎ落とし、本当に必要なものだけを鞄に詰めるという行為は、脳の負荷を軽減する作用がある。間違いない。蒐集癖のある自分にとって、旅行の支度は擬似的な断捨離なのだ。お前の魂の形を見せてみろ。
・鏡の画質って何で決まるんだろう。アルミ箔を張っただけのエセ鏡は別として、ガラス製なら100円でも100万円でも鏡自体の質は同じなのか?
・僕は本能に対してある種の信仰心のようなものを抱いているのかもしれない。生き物好きだしね。だからこそ、恋愛があたかも本能であるかのように語られると面白くない。性欲は本能だが、恋愛は本能ではない。せいぜい文化、趣味の一種だと思っている。そんな戯れの延長で生命の領域に踏み込んで来るなよ。生物らしく、純粋に繁殖だけを考えろ。もしくは人間らしく、精神だけの交流をしろ。そのふたつを混ぜるな。
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