トランス女性と女風呂
前書き
Twitterを見ていて、色々と思うところがあったので駄文ですが書きました。
色々拙いところがありますが、どうかお許しください。
以下本文
今Twitterではトランスジェンダーの権利に関しての議論が巻き起こっています。
具体的には、トランスジェンダーは性自認に応じた扱いを受けるべきという法律によって、肉体が男性であるトランス女性が女湯に入れるようになるということに関する議論です。
これに対して、「トランスジェンダーの人権を尊重するべきだ」という側と、「男性の体の人間を女湯に入れるべきではない」という側が争っています。
それだけなら穏当に済ますこともできそうな話ですが、正直言って、ひどいとしか言いようがない方向に議論が展開していっています。
例えば、「トランス女性は実は女性の人格を持っているのではなく、女装して自分は女性だと言い張る異常男性だ」とか。
あるいは、「トランス女性を女湯に入れるのが正しいのなら、異性愛男性はトランス女性と付き合え」とか。
はっきりと言いますが、この議論はどうすれば両方の権利を充分に尊重できるかの境界を政治的に調整して解決する話であって、トランスジェンダーの人権、また存在そのものを認めるか認めないかという議論には絶対になるべきではないと思います。
まず当然ですが、体と精神の性が一致しない人はいます。
というか、そもそも性別なんてものは肉体と紐付けられて二種類に分けられただけのものであって、精神を見れば二種類に限らず、男性でも女性でもない人も、その両方の性質を持つ人もいます。
そして、そういう人がいることと、大多数の女性が女湯に男体の人を入れたくないと思うことは、両立することのはずです。
女性が男体の人を女湯に入れたくないという気持ちは、ものすごく同意できます。
もし、女性が女湯に入ってきてほしくないと主張したのにトランス女性が入りたいと主張したのなら、それは女性の側の主張が容れられるべきです。私も当然そう思います。ですが、そのためにトランスジェンダーの存在を否定する必要が本当にあるのでしょうか?
人間には誰しも生理的嫌悪感があります。どんなに事情があっても、不衛生な人と握手するのに抵抗はあるし、それを無理強いするくらいなら、手を洗ってもらったほうがいいのに違いはありません。ですが、だからといって不衛生な人は頭がおかしい、犯罪者に違いないと主張して良いはずがありません。
フェミニストの方々がわざわざそういった主張をするのは、恐らく今までの自分たちの主張と擦り合わせるためだと思います。
フェミニストの方々は、今まで「女性のために」「平等な人権を求める」という形で活動してきました。
「対等な人間同士では、受け取るものは同じであるべき。そして男女は平等である」と。
それは当然立派なことです。ですが、「女性のために」と「平等な人権を求める」が両立しなくなればどうなるのでしょうか。
極端な話ですが、例えば完全な男女平等を達成するために、銭湯とトイレで男女の区分が無くなればどうなるでしょうか?(私はこのような社会は絶対に望みませんが)
フェミニストの方々は当然抵抗するはずです。なぜなら、女性の大多数はそんな事態を嫌悪し、また恐怖しているからです。
なので、フェミニストとしては何としてでも「男性と女性は違う、男性は性犯罪のリスクがあり、女性に近寄るべき人種じゃない」と主張しなければいけないでしょう。なぜなら、平等である限りは扱いが同じになってしまうから。
そして逆に、「もし平等な人間でも扱いに差があることを許容すれば、今までフェミニストが主張してきた権利がすべて無に還ってしまう」と考えているのではありませんか?男女平等である故に、賃金も地位も同じであるべきと主張してきたのだから。
故に、「トランスジェンダーは不完全な生き物だから対等である必要はない」と主張してしまっているのではありませんか?
私は、もしフェミニズムや平等思想の果てにそのような袋小路が待っているのなら、一旦その思想を捨てるべきだと考えます。
私達は誰が優良で誰が害悪だと決めないと生きていけないというわけではないはずです。
そして同時に、誰も彼もが完全な平等を達成しなければ生きていけないというわけでもないはずです。
「人間同士が平等な社会」のために、誰かが「人間として失敗作の、人として扱ってはいけない人種」にならなければいけないのなら、一体その平等思想に、人権思想に何の意味があるのですか?
それは、かつての女性が置かれていた立場なのに、その存在を肯定してしまって本当に良いのですか?
今本当に平等な社会を望むのならば、トランスジェンダーの人権を否定するのではなく、「私達はそれを受け入れられない、不平等なのは承知だが許容してくれ」と述べるべきです。
私は、人間なら誰にも同じ行動が許され、同じ権利が与えられる代わりに人間でない扱いを受ける人がいる社会よりも、お互いに利害を調整しなければならないが、皆が同じ人間として生きていける社会のほうがいいです。
たとえお金や地位や入れる場所に違いがあっても、自分のあり方を社会から否定されない社会がいいです。
形だけ平等な社会なんかより、現実に格差はあるけど、誰も「いてはいけない存在」になんてならなくていい、そんな社会のほうがずっといい。
この女湯問題を解決するには、政治家に対して主張する他ないでしょう。それは現実的ではない、今一度、社会の実情と擦り合わせて考え直すべきだと。
私達の社会に必要なのは、誰も求めていないのに押し付けられる形式張った平等でもなければ、区別され優良だと認められた人間にのみ平等が与えられる社会でもありません。
今のまま議論が進めば、どっちに転んでも誰かが絶大な犠牲を払うことになるでしょう。
大切なのは思想の完璧さではなく、今を生きる人たちです。政治家もフェミニストも、両者ともそれを忘れてしまっているのではないでしょうか。
職業の自由や同一賃金といった権利は否定すべきではありません。ですが、そのために銭湯の壁を取っ払うのも、あるいはトランスジェンダーを不可触賤民に陥れるのもメチャクチャです。そんなことをする必要は全くない加害行為です。
理屈の上で成り立つものよりも、今現実で実際に生活する人のことを考えるべきです。
以上です。拙文失礼致しました。
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