「演劇の死」について

自分のSNSでも呟いた内容をここにもまとめて残しておこうかと思いました。

いま話題の「演劇の死」について。


どうも実害についての視点から、野田秀樹さんを批判する声が高い様子ですが。
個人的には演劇という芸術への表現者や、それが生業である人の姿勢としての死なんだと思っていて、表現者が表現をしない姿勢からスタートすることが死なんだと受け止めています。
スポーツを引き合いに出した点を叩くか人も多いですが、スポーツは対戦相手(補足:あるいは記録)との関係性がまずあっての観客の存在で、それは競技者のモチベーションに寄与する話であり、競技の成立とは別の基軸かなと。最もそれがあってこそのレベルや質だと思います。
演劇は観客との相対関係において、初めて表現が成立するものであり、野田さんがいう「演劇の死」はその表現を伝える側である人々のスタンスについての疑問なんだと思います。
どうすれば届けられるか?がない表現者の世界とは?という意味で。
しかし、それでも自分は今回の自粛、休演という姿勢をやるせないとは思っていますが、勇気ある撤退だと思っています。
表現者と観客の関係性が崩れてしまう可能性が否めないので。
実際に感染者が出てしまうかどうかではなく、特に観客側が表現者側の思いを等価で受け止めた空間にはなっていないから。
選択の余地がある状況にできれば、まあいいんですけど。
ただこの野田さんの「演劇の死」に関しては、これだけ反響と批判がある中、どういう立場で捉えるか?がだいぶ別れているなあと思いながらTLを見ています。
正解、そんなものがあれば苦労はしない。
どの関係者もやりたいとは思っているはずです。お客さんに見せるための演劇ですから。
個人的には「どのくらい休演できるのか?」と「どうやったら全部できるか?」と違いかなと。
毎日見に来るお客さんは、日々変わって行くし、作品自体も変化していくライブ。
その一度の瞬間こその芸術だけに、野田さんはあの言葉を使ったのだと思っている。

https://mainichi.jp/articles/20200301/k00/00m/040/211000c

追記
今回の公演自粛に関する経済的な損失、自粛の社会的強要に基づく表現の自由に対する死という指摘や、そこに対する反発だったり、逆にこの情勢化での演劇の興行はわがままである、感染したらどうするつもりだ!という二極化のような雰囲気を漂わせています。
経済的な損失は、今後の政府の対応への推移を見守るしかないし、確かに損失はあるだろうけど、個人的にそこに主眼を置くなら東京事変のように公演しなさいという言葉しかないと思います。そこは演劇という芸術の話ではなく実利の問題なので、当事者次第と思ってます。
表現の自由に関しては、表現の内容の規制ではないこと、自粛はあくまで判断によるもの、作品を発信する機会そのものがなくなったこととは違うという観点で見ると、妥当な指摘とは言い難いと思っている。
もちろん同調圧力という日本にありがちな厄介なものは確かに存在し、それが規制というものと言えなくもないが。
野田秀樹さんの意見に対する反発に多い実害や感染危惧に関しては、演劇を見る劇場という環境だから起こりうるという話かどうかを考えると野田さんはそこをスルーしているとは到底思えず、わかった上であの声明を出していると自分は見ています。
リスクはこの日常でどこにでもあり、学校、商業施設、興行だけを自粛してもリスクヘッジしているとは言い難いという前提があるからだし、そのリスクヘッジの中に、経済的損失は含まれないような動きに疑問を感じているのでは?と。
そして劇場に足を運ぶ、リスクマネジメントは観客に委ねられるべきであると。
選択の問題が棚上げにされて、最初から観客には道はなく、そして表現者(もしくは興行主)には道を開く術への意識の変質が、この「演劇の死」という言葉を使った意味だし意図的にこの反響をも狙ったものなのではないか?と考えています。

再追加
俳優の八嶋智人さんのこのツイート。
https://twitter.com/meganeouji840/status/1234177503549214722?s=19
リプがなかなかに賑やかだ。
やはりリスクマネジメントに関する認識がリプをしている側はずれている。
やるやらないは強要されていない、そのリスクに対する感染と拡散のリスクとの天秤を握っているのはお客ということ。自粛も開催もどちらの道もあるべきという話には至らないんだなあ、、、、と寂しく感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?