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イキウメ「天の敵」の感想

先日、本多劇場へ足を運んで見てきました。本多劇場自体が久々な感じがします。最近は池袋の東京芸術劇場ばかりに行っていた気がしますので。
イキウメの公演も最近はその東京芸術劇場が多かったので、本多劇場は非常に珍しいですね。
イキウメは前回の「関数ドミノ」も非常に面白い作品なので、今回の「天の敵」も非常に期待していました。この作品、前回の公演では見ることができなかったので、再演は非常に嬉しいところです。


早速ですが、簡単ではありますが、感想をまとめておこうと思います。
あらすじは、、、、、

ジャーナリストの寺泊は、食事療法の取材中、戦後まもない1947年に「完全食と不食」について論文を書いた医師、長谷川卯太郎を知る。卯太郎の写真が菜食の人気料理家、橋本和夫に酷似していたことで、寺泊は二人の血縁を疑い、橋本に取材を申し込む。

菜食の料理家として人気を博す橋本のルーツは、食事療法を推進していた医師、卯太郎にあると考えたのだ。橋本はそれを聞いて否定した。実は橋本は偽名で、自分は長谷川卯太郎本人だと言う。

「長谷川卯太郎は私です。今年で122歳になる」

イキウメHP より

という話で、長谷川なる人物の遍歴をジャーナリストが取材する形で、この話が進んでいく。この話の中でのテーマは「食とはなにか?」を「人が生きる上の手段」という視点が主眼なのか?それとも「娯楽」という要素を含むのか?人が食べるという行為の意味、そして何より「不老不死」とはという是否を問われていきます。

このあと、ネタバレ含みます。


長谷川は戦後の飢えや栄養不足の解消を求めて、「究極の食料」を探し求める。そのうち、単一で栄養補給を行うことが可能なある材料があることに気がつく。それは「人間の血液」である。彼はひたすら血液を飲み続ける。すると、その後に肉体に劇的な効果が発揮されて、免疫力のみならず身体そのものが若返り、年を取らない(正確に言えば年齢は重ねるが、人体への老化が進まなくなる)という自体を引き起こす。
その後も血液を飲み続けるが、その事によって起こる長い年月での人生の遍歴がどのようなものか、、、、、という語りが続く。

長谷川は長寿を得たいために行ったわけではなく、血液を飲むことで結果として得られたこの肉体を、将来の人類のために自分の体を解析して役立てたいという学術的志向が高かった。しかし、彼の身体から得られるデータは何ら研究への反映がもたらされないもので、その苦悩は深まっていく。最終的に彼はこの世界からの退場を決意する。

世界の流れというのは、ある方向に向かっていて、逆流することはないのだが、長谷川の道は明らかに人類の進化ではなく、肉体の変化を停滞させたに過ぎない。話の途中で長寿の代わりに皮膚の著しい弱さというマイナス要素があることで、日中は外を普通に歩けない。「まるで吸血鬼のようだ」というセリフがあるが、まさにそのとおり。最終的にベジタリアンの血液を飲むことで、日光下の影響すら克服するが、それさえも医学や人類の進歩には貢献できない。

この吸血鬼にはいろいろな意味があると思います。単に血を飲むという行為の点だけでなく、社会や人に寄生しているという部分でも該当するかなと。長谷川が完全食を目指す理由の一つに、その動機づけになった人物・時枝がいます。時枝は途中で完全食の追求を止めて、自らの身体がどこまで維持できるのか?を目的とし、最後は水のみで生活をして衰弱していきます。その後、死んだかと思われた時枝の精神が、長谷川の前に現れ自分の肉体は今も水のみで生きていると告げる。その精神が肉体を離脱して長谷川の前に現れるという描写があります。
結局のところ、水も人に飲ませてもらっている。血液も他者からもらうことでしか身体を維持できない。両者ともに生活していくために社会への依存なしには生きていけない。もっとも時枝に関しては、本当に生きているのか、精神のみが長谷川の前に現れて会話した状況も、長谷川の妄想にすぎないという解釈もありますが。

人体という有機物の維持は非常に難しい。単一栄養では本来補充できない栄養素が多過ぎる。それを体内で作成可能な状態に作り変えることは困難だと思います。完全食は最近流行っていると思いますが、そこに関してはまさに「補充」なのか「娯楽」なのかという視点がずっとつきまとうと思います。
個人的には「娯楽」で十分ですが、健康体の維持は不可欠なんですよね。
人体の細胞は約半年程度で入れ替わると言われます。昔、池澤夏樹さんの書籍を読んだときにそのエピソードがえらく印象深かったですが、似たようなセリフがこの作品にも出てきます。面白いですよね、細胞は入れ替わっても、記憶は維持される。いつも思います。脳細胞すら入れ替わる状況で、どこに保存されているのか?と。

前川さんの戯曲がすごいなあと思うのは、この血液を飲むことでの長寿を、肯定的に捉える視点がほとんどないこと。持病も治るなどのエピソードもあります。しかし若さを維持できるという点で、後半に真似る人物も出てきて、その行為から「血液を飲む人」「血液を売る人」という新しい格差を生むに過ぎないと示唆します。今の社会における状況の助長に過ぎない。よく天寿を全うすると言いますが、長谷川はその天寿を全うするを逆の意味で進めていき、そして得たもの・失うものを天秤にかけて、その結果自ら退場していく決断を下す。結局は人の欲でしかない「不老不死」という願望が生む功罪を描いてくれるのが、ありがたいです。人の血を飲むという行為の倫理性という部分もそうですが、結局は寄生することでしか生きられない長寿の意味のなさが浮き彫りになっていきます。
長谷川が語ることで絶望を自覚していく流れは説得力が高くて良かったです。長く生きることで、何か役立つことがあればよかったが、その結論は見いだせず、ただ止める勇気を持つこともできずに、何かの希望を見出したいと思いながら血液を飲み続ける。彼が得たものは何か?と聞かれたら、彼の目的や願いには程遠いものだったでしょう。

長谷川役の浜田さんが良かったです。浜田さんの抑揚の少ない語りが、この長谷川役にピッタリハマっています。取材をするジャーナリスト寺泊の安井さん、前回の関数ドミノ同様に良い意味で話を動かしていきます。そして個人的に大好きな女優さんの瀧内公美さんが長谷川の妻、そして現代での長谷川のビジネスパートナーという役どころを見事に演じています。特に長谷川に血液を提供するというおかしな役どころながら、感情表現も豊かに演じている瀧内さんは本当に素敵な女優さんです。

寺泊は難病を抱えています。ALSは治療困難なものであり、この血液を飲む行為によって自身の病気の治癒の可能性もある。しかしこの作品の中では寺泊はこの長谷川の話をフィクションと捉える。冷蔵庫の血液を見るまでは。
この作品の良さはこのあとの余韻の残し方で、果たして寺泊は血液を飲むのか?ということへの想像を掻き立てることです。非常に面白い。

不老不死というテーマはいろいろな作品で何度も語られている。そしてそれは永遠の夢なのか、生命体のもつ宿命に対する反逆行為なのか、答えはないけど、この価値観の対立が消えることもない。人の欲望がなくなることがない以上、死の恐怖を逃れるすべを追い求めることも永遠に続くから。
以前前川さんが書いた「終わりのない」という作品、あれにも通じるというか、人生の中での様々な出来事の捉え方がどう変わるか?というある種の刹那的な価値を大事にしたいなあと、自分は思います。
なんか、あやしい感じもしますが(笑)

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