舞台「世界は笑う」の感想

もともとは8月下旬にチケットを押さえていたのですが、急遽仕事が入った関係で昨日を緊急で取りました。そうしたら、コロナの影響で開演延期となり、うわ!と思ったのですが、なんとか自分の押さえた公演はちょうど開演スタートのものになり、見ることができた次第。

ケラさんのつぶやきで長いというのを知って、嬉しさと大変さの半々。

長いな、本当に。ソワレの時間だったので、流石に帰宅を気にしました。終わり時間が22時15分くらいでしたかね。慌てて劇場をあとにしました。遠方なものでw

ストーリー

「舞台は、昭和30年代初頭の東京・新宿。敗戦から10年強の月日が流れ、巷に「もはや戦後ではない」というフレーズが飛び交い、“太陽族”と呼ばれる若者の出現など解放感に活気づく人々の一方で、戦争の傷跡から立ち上がれぬ人間がそこかしこに蠢く…。そんな殺伐と喧騒を背景にKERAが描くのは、笑いに取り憑かれた人々の決して喜劇とは言い切れない人間ドラマ。

戦前から舞台や映画で人気を博しながらも、時代の流れによる世相の変化と自身の衰え、そして若手の台頭に、内心不安を抱えるベテラン喜劇俳優たち。新しい笑いを求めながらもままならぬ若手コメディアンたちなど、混沌とした時代を生きる喜劇人と、彼らを取り巻く人々が、高度経済成長前夜の新宿という街で織りなす、哀しくて可笑しい群像劇。」
※公式ページより引用

という形で昭和中期という時期のある劇団「三角座」における役者たちと、その周りの人々を描いた作品になっています。時代の空気感を味わう面白さと、存在はしなかったはずの喜劇人が時代の変化に合わせた「笑い」という道への葛藤や経済的成功への苦しみなどをじっくりと見せてくれます。

役者たち

主役というか、ストーリーの中での中心は、三角座の裏方として働く彦造で瀬戸康史さん、その弟で売れない役者から人気役者に変貌するが、苦悩を抱える是也に千葉雄大さん、その是也を支える劇団の踊り子・撫子に伊藤沙莉さん、同じ劇団の役者で撫子の兄・大和に勝地涼さん、彦造が好きになる貸本屋の店員に松雪泰子さん、他に山西惇さん、大倉孝二さん、緒川たまきさん、山内圭哉さん、マギーさん、伊勢志摩さん、廣川三憲さん、神谷圭介さん、犬山イヌコさん、温水洋一さん、ラサール石井さん、銀粉蝶さんと豪華メンバーです。
個人的には千葉雄大さんを舞台で始めてみたのですが、非常に良い存在感だったと思います。特に後半のヒロポン中毒以降の苦しみや、笑いに対する探究心の果ての姿などは、そういう苦悩をどう伝えるのか?大変だったろうなあという頑張りが伺えます。是也の役柄は特にこの三角座における転換を担うので、緩急をつける意味でも瀬戸康史さんとのコンビは非常に上手かったと思います。
伊藤沙莉さんも舞台では初めてですが、彼女は個性が強いので、その印象が舞台にも出ていると思います。ただ下手という意味ではなく、彼女の存在感と配役がうまくマッチしているなあという感想です。
瀬戸康史さんは以前の三谷幸喜さんの舞台で見たときもそうですが、二枚目なのに微妙にずれた芝居を見せるのが見事で、今回の彦造も地方から出てきたから、世間知らずという側面を持ちつつも、どこかピントがずれているけど憎めない正直さという役柄を見事に演じています。
他のみなさんも素晴らしいのですが、存在感高いのは山西惇さん。劇団の座長という役柄ですが、この作品では劇団の運営に苦労しつつも、しゃーないっていう感じで乗り切ろうとするのですが、後半の爆発などそのキャラクターのバランスが絶妙で、いろいろな舞台で山西さんが起用される理由が改めてよくわかる気がします。
あと松雪泰子、きれいだし、儚げな部分と天然な部分のバランスが非常に良い。先日観た新感線での演技とは大違いで、流石だなと。そしてその演技の上手さに見事に最後騙された感じになるのですが、そこがまた彼女が見せる演技の巧さなんだと思います。
大倉孝二さん、ケラさんの作品だと大概苛ついている感じですが、今回も苛ついていましたねw そこがまたうまいのですが。この時代の笑いを見せる役者の上昇志向だったり、笑いのために必要な感性はなにか?みたいな部分を追求する配役、また同時に才能が素晴らしいと言われた兄との比較みたいな部分のバランスを上手く演じていたと思います。大倉さんの苛ついて吐き捨てる演技って不変なんだけど、それがどの場面でそう使われるか?で本当にそのシーンでの色が変わるなあといつも思います。
役者さんの感想は尽きないですね。

作品を見て

上演時間を見て、「長いなあ、お尻が痛くなったら嫌だなあ」と思った自分を大いに反省しました。そんなことを意識する部分、全然なかったです。休憩前までの二時間があっという間。三角座の劇団の転換期みたいな部分で前半が終わりますが、ここまで彦造の動きを中心に据えながら、劇団の人間模様や劇団員の抱える問題をバランスよく見せて話が動いていきます。彦造は決して主役という位置づけでもなく、それは他の役者も同じで、そのあたりのバランスの良さが今回の話の良さだったし、個々のエピソードの見せ方のバランスが非常に良かったです。変に偏りもなく必要以上に肩入れする感じを見ている側も持たない作り。この作品を見ている観客はそういう意味ではこの三角座での出来事を、俯瞰的な感じで見ているような感覚に思えます。時折混ざってくる感情のぶつかりみたいな部分もふくめて、ケラさんは結果としてすごくわかりやすい部分を多く見せてきたなあと思います。解釈はありますが、そこに対するいろいろな回り道が少ない感じです。
例えば冒頭で脱線トリオがテレビに出ていることに対するやりとり、嫉妬と羨望で批判する傍ら、テレビプロデューサーに媚びを売る劇場出身の喜劇人や体を張ってでも売れようとする女優、大物との共演にチャンスと飛びつく役者などなど、劇場での集客を目指しつつもテレビという時代のメディアに飛びつきたいという本音。今の時代にも普通に通じることなので、余計に役者たちの思いが伝わってくる場面ですね。
同時に是也がお笑いの追求のために作家になりますが、その彼が目指すお笑いが結局大衆受けするのか?という命題も突きつけられて、そしてそれは見事に大衆からはそっぽを向かれる。
このあたりは例えるなら松本人志のお笑いに対する評価と非常に似通った部分がある気がします。松本人志のお笑いはそっぽは向かれていないとは思いますが、彼の作ったお笑いの世界は、少なくとも芸術性を高める部分含めて成功したのか?と言われると難しい。単純にシュールという言葉では片付かないと思います。
是也も後半に「ここにソファがあること、ここで会話していること、云々、、、これが面白い、笑いである」というセリフを放ちますが、実際その感覚は「なんでそうなのか?」という前提を共有できる感性あってこその話で、その前提を一般大衆に要求することになります。それはお笑いというフィールドにおいてどうクリアされるべきかで考えると一般化されない。
松本人志の作った映画の笑いも同じだと思いますけど、そこに客の選別がある時点で、閉ざされた世界の笑いは一般化しない。
是也は結局、その部分には最後まで歩み寄ることができないまま崩壊していく。彼の書く世界はもう少しあとになって初めて開かれるのですが、それが時代なんだと思います。
そういういろいろな変遷を三角座という場を通じて堪能できるので、非常に面白い時間でした。

最後に

この作品を見ようと思ってから、作品設定などを見るたびに、自分はこの小説を思い出していました。

個人的には、傑作と思っている作品のひとつなのです。
今回のケラさんの作品は「時代の空気」を強く意識させてくれる作品で、そこがまた個人的ツボでした。この小説も戦後に主人公・辰夫が作った雑誌が売れて、一気に時代の寵児となったものの、いつの間にか時代から外れていくというストーリーです。今回の「世界は笑う」とも東京オリンピック前という意味では似通った時代での作品と言えます。
この時代に限らず「変化のスピード」についていくのは正直難しいことも多く、この作品における笑いだって、「ボケ」だけは廃れて「イジり」や「ズレ」といったものがここまでの年月の中でどんどん変わっていく。今やコントを作る人は数少なくなり、お笑いコンビと言われる人はバラエティ番組の進行で顔を売って、お笑いとしての道をつなぐ時代になっています。
それが今の時代の売れ方なので、良し悪しではなくそういうことに対応できる柔軟さがお笑いを演る人には必要なんだと。
今回の舞台では「喜劇人」という表現がずっと使われています。テレビをメインにしていないからお笑いタレントという表現ではなく。喜劇人という肩書で呼べる人が今どれくらいいるのか?はわかりませんが、そういう人がいるとするなら、きっと何を諦めてその位置にいるのか?だと思うし、その葛藤にどう向き合ったのか?という部分を知りたいと。
今度ケラさんにはそういう作品も書いてほしいなあ、、、、と思いました。


更に最後に(ネタバレあり)

休憩前が三角座の在りし日の良い空気だとしたら、休憩明けの遠征先の旅館での出来事は、三角座が壊れていく日の始まり。座長の元妻で興行主(銀粉蝶)の錯乱(というか、ボケ?)、ラーメン屋の店主(マギー)の売上盗み未遂事件、更に是也のヒロポン中毒による入院と撫子との決別。どんどんと転げ落ちていく劇団の中に最後爆弾を落としていくのは、初子の裏切り。死んだと思った夫がやり直したいと戻ってきて、結果好きと言ってくれた彦造ではなく、夫を選ぶだけでなく劇団の売上金すべてを盗んでいく。
こういった出来事が一気に押しよせることが、さて単に劇団の運命っていう話として描かれたのか、それともそれを俯瞰的に見るべき出来事なのか?だと思っています。
個人的には、そういった出来事含めて、全てが是也のいう「笑いの要素」なのかもしれません。当事者には深刻な出来事でも、これ第三者からみたら「笑える」ことかもしれない。つまり世間イコール世界は笑う。そういうものとしてこの三角座に起こった一連の出来事が捉えられることにもなるのかな?と。
笑いとは当事者にとってどのような出来事であっても、またどんな素材であっても笑いになりうる。彦造にとっては、初子との出来事が悲しい話かもしれないが、この話を聞いた第三者は「振られたのかwww」となりうる話題の提供に過ぎない可能性もある。
是也は人気が出たが、当人はあくまで作家としての自分にこだわり、その結果、自滅していく。ただ「笑い」として追求したものは少し報われる。これは時代と是也の価値観が足並みを揃え始めた結果かもしれない。舞台からテレビに笑いが移ったように世間の求める笑いも変化した。これはずっと今の時代にも続いています。
他の劇団員はどうなったでしょう。あえて描いていないことが良いなと思いました。その余韻は自分たちが楽しむものだと思います。だからこその「演劇」だと。演劇という表現は、その余韻を楽しむという余地が映画などと違って、観客に突っ込まれないので良いですね。映画だと「どうなったのか?」みたいな話が多いですし(笑)

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