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佐々木先生のこと

佐々木先生とは、私の小学校4年生と5年生の時の担任の先生。
メガネでぽっちゃりしていて、頭が波平さんみたいな(もうちょっと毛があったかもしれない)当時50代もしかしたら40代の先生だった。
怒ると「ダブルビンタか、シングルビンタ、どっちがいい?」って聞かれてビンタされた。
今となっては体罰だけど、昭和の時代には当たり前だった。
先生は怒ることはあっても、いつもニコニコしていた印象がある。

先生は国語が大好きで、4年生になった時に初めて詩を書かされた。
最初は「詩って何?」って感じで何を書いていいかわからなくて、途中までしか書けなかった。
最初に書いたのは確か学校の中庭の様子で、噴水があるとか、ヤギがいるとか、見たままの風景をただ文字にした気がする。
「詩」にはなっていなかったと思う。
それでも、とにかく毎日詩や作文を書かされた。
書いているうちに先生が、ちょっとしたところを赤ペンで褒めてくれるようになった。
書くことが楽しくなった。
先生は、私たちの書いた詩や作文を毎日小学生新聞や地域の作文コンテストなどに送ってくれた。そのうちに毎回クラスの誰かが新聞に載ったり、地域のコンテストで賞を取ったりするようになった。
私もハナマルキ主催のお母さんの詩コンテストで賞をいただき、そのほかにも地域の作文コンテストで佳作になり、近くのデパートに展示され、家族で見にいった思い出がある。
他にも年に10冊ぐらい学級文集を作ったり、このクラスで卒業までに漢字辞典を作ろうと漢字の読み方や使い方などを調べさせられたりした。
当時は「漢字辞典なんて作れるのかよー」と出来上がるまでの長い道のりと、漢字の宿題にうんざりしていた。
本当に国語の好きな先生だった。

4年生、5年生とクラス替えもなく、先生もそのまま持ち上がって、私たちは5年生になった。
相変わらず詩やら作文やらを書かされる毎日で、それが当たり前になっていた。

5年生の冬休みが終わって1月末の土曜日、先生が学校にこなかった。
いつまで経っても来なくて、結局代理の先生がきて、その日は終わった。
「きっと風邪でもひいたんだろう」と誰も不思議に思わなかった。
月曜になっても先生は現れず、その日の全校朝会で校長先生の口から佐々木先生が亡くなったことを知らされた。
びっくりして顔がニヤけてしまって、ニヤけた自分にもびっくりした。
受け止めきれなかったんだと思う。
でも、知らずに涙がでてきて、周りを見たらみんなも同じように下を向いて泣いていた。
その瞬間、どんな気持ちだったかは思い出せない。
悲しいと思う暇もなく、ただただ涙だけが勝手に溢れ出てきた。
泣きながら体育館から教室に移動した。
教室に戻ってもみんな泣き続け、その日の授業はなかった。

翌日になってクラスの女の子が新聞を持ってきた。
新聞には先生が車の中で亡くなったということが載っていた。
社内に「疲れた」と走り書きで書かれていたとも書いてあった。
先生が来なかった日の前日に、私を含め女子何人かが怒られたので「私たちのせいかもしれない。私のせいだったらどうしよう」と思った。
怒られて後ろに立たされても私たちはふざけていて、それを見て先生は諦めたような顔をして笑っていた。
いつも通りの先生だった。
いつもと変わらない先生、いつも通りの学校、いつも通りの授業。
このまま当たり前に毎日が続いていくと思っていた。
でも、その日が先生が学校に来た「最後の日」になった。

結局3学期は代理の先生も見つからず、今のようにスクールカウンセラーもいなかったので、私たちはのんびりと学校で過ごした。
何を思って、何をして、3学期を過ごしたのかはよく思えていない。
中庭に面したロッカーの上に座って、背中に日差しを浴びて、ぼんやりと「あったかいなー、もうすぐ春がくるなー」と思った。

当時、私の家は飲み屋をやっていて、学校の先生もたまに飲みに来た。
妹の担任の先生が来たときに「佐々木先生はどうして死んじゃったの?ね、どうして?」って聞いたら「うるさい。その話はするな」と怒られた。
いつもは大人しい妹の担任の先生が声を荒げるからびっくりした。
先生が帰った後、父親にそのことを話したら「先生も悲しいんだよ」と言われた。
「先生でも大人でもわからないこと、悲しいことがあるんだなー」と思った。

この前、実家に帰ったときにダンボールに入った文集を見つけた。
ダンボール一箱全部4年生と5年生の文集だった。
一人一人のページに先生の添削が入っていて、丁寧に感想も書かれていた。
やっぱり国語を教えることが、文章が、大好きな先生だったんだなーと思った。
みんなの作文を読みながら「5年5組のみんなは何してるかな。こんな風に思い出すことがあるんだろうか」と思った。

先生のことがあってから、私は「自ら亡くなってしまうことは悪いこととは言い切れない」と思うようになった。
でも、やっぱり「どうして」と考える。
「何かできることがあったかもしれないな」と思う。
だけど、答えはいつも出ない。
大きく息を吐いて「悲しいな」という思いが残るだけだ。
線香花火の火が静かに消えて、燃え残った燃え殻をただ見つめるような、そんな思いがいつまでも残って、心が「ぎゅっ」とするだけだ。
「悲しい」と「寂しい」と「苦しい」と「会いたい」と、そんな気持ちの間を埋める言葉があったらいいのにと思う。

先生が教えてくれた書くことで先生のことを書いてみたよ。
毎年命日に思い出すけどさ、私、先生の年齢を超えちゃったかもしれないよ。
もう40年近く経ったもんね。
あの時、先生が書くことを教えてくれなかったら、私は国語も嫌いだったし、こんな風に書くこともなかったと思う。
おかげで、書くことに抵抗がなくなって、その後の人生ちょっと得したとように思うよ。

先生、書くことを教えてくれてありがとね。


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