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日出処の天子ー LaLaとの出会い

 小中学校の頃、廃品回収という行事があった。今も「ビニ本」という媒体はあるんだろうか?男子は集められた本の中からビニ本というか、エロ本を見つけ出し、こっそり持ち帰りみんなで見ていたようだ(今考えるとちょっと気持ち悪いけどね)。ほどけた紐の間から抜き取ったマンガを読みながら、業者の回収を待つ。その時出されていたマンガに、波打った「日出処の天子 4巻」があったのだ。

 それまで「なかよし」やら『マーガレット」を買っていた私は、今では神とあがめる山岸凉子先生の絵を見て、「ちょっとなんか地味」と思ったのだった。「こんなの少女漫画じゃない・・・」。実際、少女漫画以上のものではあったのだが。当時は、池田理代子先生の絵が好きだったので、後にこの二大巨匠が、「聖徳太子」で火花をちらすことになるとは・・・と違った意味で感慨深い。

さて、それでも、マンガのコマを眺めていた私は、ある違和感に気づいたのである!「セリフが四角い!!!!」と。

これは、衝撃的な出来事だった。吹き出しのコマをわざわざ四角く書いている!こんな描き方ってあるの!?

つぎに見つけたのが、「里イモが好き!」と小さくコメントが添えられた馬子の一コマ。これにけっこうハートをやられた。

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こんなにシリアスで、マンガじゃない絵みたいなのに、こんなコメントが!!!」。なにしろ、「はいからさんが通る」の「今週のみ言葉」コーナーが大好きで、これ見るために「ハイカラさんが通る」は断捨離できなかった私。山岸先生おちゃめな笑いに気づいてしまった私は、一コマ一コマ注意をはらって、読み進めることとなるのだった。

絵が少女漫画少女漫画していないので、それぞれのキャラクターは、どこかで見たような面持ちをしている。

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当時の担任の先生 

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家が床屋のあいちゃん

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名前忘れちゃったけど、学年に一人はいるであろう女子

読みはじめてしまえば、これはもう後には引けない大河ドラマ!学校で「日本史」も習いますので、その勉強にもなる!ということで、もう手放せない作品となった。当時水泳部に所属していたのだが、部室に持ち込んで、みんなで回し読み。続きが気になって、ついにあの『LaLa』を買うようになった。「あの」というのは、当時『LaLa』に連載中の作品に女の主人公がいなかったのだ。『LaLa』『週刊少年ジャンプ』『花とゆめ』『マーガレット』『ちゃお』『プリンセス』『週刊少年サンデー』あたりをクラスのみんなで回し読みしていた気がする。良き時代であったと言えよう。(なんかよく分からんが、大藪春彦とかも回し読みしていた気がする・・・。)

そんなこんなで、今でもあの廃品回収には感謝している。あの時、濡れてしまったのか、波打っていた『日出処の天子』がなければ、後の楽しい同人生活もなかったように思う。作品の魅力は言うまでもなく王子のキャラクターや、細い線で描かれたその絵にあると思う。超人的な能力を持ち、容姿端麗・頭脳明晰、全てに秀でた存在なのに、本当に自分が望んでいる愛情だけは手にいれることができない。この、「何もかもに秀でているが、愛情だけは手に入れられない」というのは、腐女子全般がハマりやすいパターンなのではないだろうか?見目麗しく頭脳明晰、多くが金持ちで・・・という設定に腐女子たちは自己の理想の姿を投影していたのかもしれない。一説によると、押しキャラは、受け、つまり男女でいうと女性的な立場をとる方に配置されるそうだ。自己が投影されているといわれる。

物語終盤、厩戸は夜太刀の池で毛人に告白をするが、「あなたの言う愛とは、相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを意味しているのです。私を愛しているといいながら、その実自分を愛しているのです。その思いから抜け出さぬ限り人は孤独から逃れられないのです。」と言われ、拒絶される。どこまでも救われない王子である。山岸先生は、その原因を母親に求めている。何にせよ、受け入れられていないという孤独感に共通する孤独というものを、これらの物語に傾倒していった腐女子達の中にあったのだと思う。腐女子を卒業して、あのころ味わっていた孤独感というの癒されたのであろうか?人生の基調低音のようにそれらはいまだに鳴り続けているような気がしてならない。

日出処の天子とは

『日出処の天子』(ひいづるところのてんし)は、山岸凉子による日本の漫画。1980年から1984年にかけて『LaLa』(白泉社)に連載された。1983年度、第7回講談社漫画賞少女部門を受賞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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