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キリエのうた

2023.10月下旬に映画館で鑑賞。せっかくnoteをつくったので雑感をまとめておく。noteにまとめるか…といいながら思ったことはぱらぱらSNSに書いてしまったし、noteのことを片隅においたまま数日経過しているので継続できる気が全くしていないのだけれど、一応ね。

キリエのうた、3時間はながいよ…と思いながら観に行ったけど全く長さを感じさせなくてすごかった。2時間すぎたくらいから「おっ、ラストシーンか?」と思うシーンが連続していたんだけど、パンフレットを読んだら現場でも「ラストシーン撮れたよ~」といいながら撮っていたらしくて笑ってしまった。全体として、まったくちがう人たちが、音楽を通して繋がっていて、音楽を通してしか繋がれなくて、けれどそれは全然ふしあわせなことではないのだと言われているような映画だとおもった。後半、魔法がどんどんとけていって、少女たちが剥き身になっていくと感じるのだけれど、エンドロールの彼女はちっとも不幸ではなさそうだった。音楽が誰かを救うなんてことはこの物語のなかではひとつも示されないけれど、歌がイッコとキリエを、マオリとルカをつないでいたことだけは明白だった。私は岩井俊二の映画の音楽がすごく好きだから(まあみんな好きだろう)彼の映画でたくさんの歌が聴けて、それだけで満たされてしまいそう。

夏彦のことを書く。夏彦というキャラクターの、どうしようもなく普通の、やさしくて、臆病で、ずるくて、でもどうしたって善人である彼の生々しさに夢中になってしまった。なんだあのキャラクター。こんなん好きになるに決まってるよ。頭の良い伯父がいて、バレンタインのチョコをもらうくらいにはモテて、医学部志望の、でも目の前に女の子がいてぐいっとこられたら手をだして、勉強より全然目の前の色恋に夢中になっちゃう、普通の男の子の夏彦。夏彦の「あ……」とか「えっと、」とか、自分に都合の悪いことが目の前にあらわれたときに取る伸びた間合いとか、そういうのから伝わってくる生身っぽさが、女の子たちが概念的であればあるほど毒っけになって癖になるのかな。風美先生へ告白するシーンで、夏彦が「みつからないでほしいとも思ってしまうんです」という台詞、最初にきいたときは明示的すぎると感じたけれど、あれを懺悔なのだととらえると、むしろわかるわ……となった。夏彦の時間はキリエを失ったあの瞬間から、永遠に止まったままなのだね。ミューズへの懺悔は彼をひとつとして救わないからやるせないし、そういう仕打ちに対してやるせないと思わせる人間だった。

この映画で、松村北斗さんの台詞の合間のちょっとした語尾の伸ばし方とか、あ、て詰まる感じがすごくよくて、こういう繊細な芝居をするひとなんだ、ということを知った。帯広で児童相談所の人にルカが連れていかれるときのあのなんともいえない「あ、えっと、あの」という部分、二度見て二度とも「私が児童相談所の職員だったら絶対にこの男と彼女を近づけてはいけないと心に誓うだろうな」と思わせてきた。と思っていたら岩井俊二も同じようなことを褒めていて、パンフレット読んで「わかるわ~」とうなずいてしまった。そうだ、パンフレットの松村北斗さんのコメントがすごくよかった。こういうもののとらえ方をして、アウトプットをする人なのか。文章を書くような仕事はしてないのかなあ。彼の書いた文章を読んでみたいとおもった。

そういえば、これはSNSにも書いたのだけれど、今回キリエのうたでは東北震災、というか津波が悲劇の舞台装置として描かれている。描かれ方がエモーショナルで、これまでの津波を取り扱った作品とは一線を画す印象を受けた。私は「ああ、10年という歳月は津波を悲劇の舞台装置として取り扱うに足る時間なのか」と思いながらみていて(もっと率直な物言いをするなら「もう我々は津波をエモ消費できるのか」と感じた)、けれども、では翻って、津波という災害はこれまでどういった役割で描かれてきたのか、私たちは津波をどう記号化してきたのか、ということも同時に考える必要がでてきてしまったと感じた。……のだけど、パンフレットを読むと、どうやら岩井俊二のなかではそこまで割り切った舞台装置としての役割でもないようで、それもまた興味深くて、この件についてはまだぼんやりと考え続けている。

二回目に観に行った日は、劇場を出たら夕暮れで、夜にちかづいていく街のなかを、キリエのうたのサントラを聴きながら帰った。

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