なんしょんな_俺

『なんしょんな!俺』(1) アニメーションプロデューサー、川人(かわんど)です / 川人憲治郎

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 私の名前はまだ無い。ってそんなわけあるか!名前は川人憲治郎、名字はカワンドと読む(名はケンジロウ)。珍しい名字なので電話をかける時は「カ・ワ・ン・ドです」と一字一字区切って言わないと相手に伝わらない。普通に喋ると相手には、カワモト、カワモダ、カワムド、と聞こえるらしい。名字に〔ン〕が入るとは皆さん思っていないようで、何度も言い直すのに疲れたので最初から区切って喋ることにしている。
 今年でアニメ業界歴36年目に突入。ふと昨日のように思える時があるが、いやいや36年だぞ。同じ干支が三周りしてますよ。22歳でアニメ業界に制作進行として入り28歳でアニメーションプロデューサーデビュー(※1)して今年で57歳。あと三年(数えだと二年)で〔鬼太郎のちゃんちゃんこレッドVer.〕を着られる歳になるなぁ。それを着たら髪の毛針やリモコン下駄が使えたら喜んでもらうけど、そんな能力は付いてこないから赤身のお肉で祝って欲しい。赤身の魚でもいいや。

 出身は四国の香川県丸亀市。四国と付けないと香川県ってどこにあるか分からない人が多いので(悲しい…。)でもいまはうどん県の方が通じるかな。それもつい最近県のHPで『ポケモン』に出てくる〔ヤドン〕と〔うどん〕の語感が似ているから〔ヤドン県〕に改名って載っていたけれど『ポケモン』より東宝怪獣からとって〔ラドン県〕にして欲しい。
 子供の頃から絵を描くのがそれなりに好きだったのと、中学時代に聞いていたプログレバンド『YES』のジャケットデザイナーのロジャー・ディーンと、それとは真逆な画家・竹久夢二に憧れていて、高校はインテリアデザイン科に進む。卒業後はそのまま地元で就職も考えたけれど、このまま讃岐うどんと骨付き鳥に埋もれて生きていくより近い都会の大阪に行ってみようと思い、大阪芸術大学の文芸学科へ進学した。

 インテリアデザイン科から何故文芸へと鞍替えしたか?それは当時作家の村上龍と中上健次に心酔していたのと、授業料が安かったからが理由。ただ、大阪に行ったは良いがこの地の二大グルメと言えばはタコ焼きとお好み焼き。どちらも小麦粉が原材料だから、粉もんからは逃げられない運命とわが身を呪う(笑)

 大阪と言えば、私がまだ小学四年生だった1970年の大阪万博以来9年ぶりに訪れるわけだが(万博の思い出と言えば行列に並ぶのが嫌な父親のおかげでスッーと入場できる国のパビリオンしか連れて行ってくれなかったこと。阪神デパートで『ガメラ』と『ミラーマン』(漫画版)のソフビを買ってくれたことを憶えている)、吉本新喜劇をお昼ご飯のオカズとして育ってきた私としては大阪に恐怖は感じなかった。まあ学校がある場所は大阪と言っても南河内郡(※2)なので、そうとう田舎だったしね。
 

 学生時代は人形劇サークル「青い馬」に所属して年二回の学内公演と幼稚園を回って園児達に人形劇を披露する幼稚園公演などでサークル仲間と楽しく過ごしていました。NHKで放送されていた人形劇を観ていて人形劇には興味があったので人形劇サークルに入った理由です。
 そんなある日、阪急ファイブに当時あった、オレンジルームで観た結城座の「少女仮面(唐十郎作:佐藤信演出)」に衝撃を受けたのです。生身の役者と糸操りの人形が同一空間にいてもまったく違和感のない舞台演出に圧倒され、かつ今までに味わったことのない唐さんのリズミカルな長セリフに魅了されたこともあり、状況劇場ではなく人形つながりで結城座(※3)に入りたいと決意し、面接を受けに東京へ出ました。
 初めて降り立った東京は、人の多さと複雑な路線図に恐怖を覚えたことを今でも忘れない。

 東京での生活は、劇団まで歩いて行ける住居を探して吉祥寺駅から徒歩5分の一軒家に下宿することになった。
 一階は大家さんである老夫婦が住んでいて、一階の一部と二階をそれぞれ三畳に間仕切られた住まいでした。トイレ、炊事場は共同。お風呂は無し(銭湯までは歩いて2分)の生活が始まった。ちなみに私の部屋の前の住人は大食い選手権の司会を22年間やっていたお笑いタレントの中村ゆうじさんでした。でも結城座にいた期間は短くて、プロの厳しさに耐えられなかったヘタレな私は一年足らずで辞めることになりました。このまま香川県に戻るのもなんだし、しばらくアルバイトして次を考えようとアルバイトニュースを捲っていると、グリーンページ(当時中途採用を主に掲載したページ)に『まんが日本昔ばなし』を制作しているアニメ制作会社グループ・タックの制作進行募集があり、アニメの制作工程はまったく分からないけれど、アニメは子供の頃から観ていたし好きだったので応募したら、運よく採用。
 当時のグループ・タックは、原作もののTVシリーズを手掛けるのは『ときめきトゥナイト』(1982〜1983年放送)が最初で、その次に制作していたタイトルが『伊賀野カバ丸』(1983〜1984年放送)。
その制作進行としてアニメ業界の第一歩を踏み出すことになりました。

 続きはまた。

(※1)NHKで1990年〜1991年に放送された『ふしぎの海のナディア』
(※2)大阪府の南東部にあたり、奈良県との県境に接する。和歌山県にも近い。
(※3)1635年(寛永12年)に旗揚げされた江戸糸あやつり人形による人形劇団。国の選択無形民俗文化財として選択され「東京都の無形文化財」に指定されている。現在は東京都小金井市に稽古場をかまえている。


【 川人憲治郎(かわんど けんじろう) プロフィール 】
 1961年4月1日生まれ。香川県丸亀市出身。
 株式会社グループ・タック、株式会社サテライトなどでアニメーションプロデューサーを歴任。
 ふしぎの海のナディア(1990年 - 1991年)、ヤダモン(1992年 - 1993年)、グラップラー刃牙(2001年1月 - 12月)、FAIRY TAIL(2009年 - 2013年)など、プロデュース作品多数。
 現在は、株式会社ディオメディア(http://www.diomedea.co.jp)にて制作部本部長を務める。無類の愛犬家。

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