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画塾を逃げ出した私と3つのカネダイン

久しぶりにコラージュをしようと文房具入れを開けると、未使用のカネダインが3つ出てきた。

カネダインとは、強力接着剤とは書かれているものの、接着したすぐであれば比較的剥がしやすく、工作やコラージュで微調整したいときに役立つ。

ちょうどいいところに見つけたカネダインだったけれど、私にはとても苦い思い出の品だった。これはおよそ5年前、会社員をしながら美大受験のために画塾に通っていた時に買ったもの。私はセンター試験を控えた冬のある日、先生に11月分の月謝を手渡した後、何も言わずにその場から走って逃げ出した。

それからというもの、画塾には顔を出していない。辞めるとも、お世話になりましたとも、何も言わずに立ち去った。元々かなりフレキシブルな画塾だったので、月謝さえ払っていれば自分の好きな時に出入りしていい場所だった。そんな自由な雰囲気を悪用するかのように逃げた私はとても卑怯で、きっと先生のことも傷つけてしまったと思う。でもあの時は、そうするしか心の平静を保てなかった。

初めて画塾に体験授業に行った日のことはとても鮮明に覚えている。石膏でできた丸い物体を目の前に置かれ、デッサンするようにと紙を渡された。高校時代美術部の幽霊部員だった私はまともにデッサンなどしたこともなく、なんとなく鉛筆を動かしていると脳が痺れるような甘い感覚に陥った。

「あー、これが噂のエクスタシィってゆうやつなのかな」

当時セックスでもまともに感じたことなかった私にとってそれは新鮮な感覚で、頭の中に金粉が舞うようななんとも言えない恍惚感があった。デッサンをやりなさい、身体中がこの体験を待ちわびていたんだ、とそんなふうに見えない何かから言われているような感覚だった。

それから、1年後に控えた美大受験に向けてデッサン三昧の日々が始まった。三昧と言っても週に3回画塾に通ってひたすら書き続けるというだけで、その他は家でセンター試験の勉強をしていた。休日は朝から夕方まで8時間ほど描いて、平日は会社が終わってから21時ごろまで画塾に入り浸り、高校生や第2の人生を絵とともに過ごす人たちと肩を並べて手を動かした。

最初はリンゴから始まり、布や紙、ビンや缶など質感を表すデッサンをし、石膏デッサンまでやった。一通りデッサンすると、次は受験する学校別の対策として工作や色面構成、絵の具を使った着彩などの練習をした。その時に勧められたのがカネダインだった。どんな作品を作っていたのかは全く思い出せないけれど、紙を切ったり貼ったりして1つの作品を作るのにカネダインを1.5本分くらい使っていた。教室にはカネダインの匂いと、部屋の隅でこっそりとアイコスを吸う先生の焼いたトウモロコシのような香りが漂っていた。

先生はとても誠実で優しく、絵に情熱を持った人だった。一人一人の絵に丁寧にコメントし、時に厳しく、時にユーモアを交えて熱心に指導してくれた。

「ちょっといいかな」

そういって私の鉛筆をそっと手にとって目の前の物体を紙に写し取っていく様はとても美しく官能的で、先生の引く線が羨ましかった。鉛筆の筆跡になりたいと思ったのはあれが最初で最後かもしれない。先生の薬指には結婚指輪のようなものがはまっていて、隣の部屋からは子供の声が聞こえた。

別に先生に恋心を抱いていたわけではないけれど、でも人間としてとても尊敬していたし必要十分に好きだった。当時の私の生活の中で唯一芸術と真摯に向き合う人の生き方全てを、この目で見て触れて感じたいと思った。

しかし、そんな純粋な熱のこもった筆跡や眼差しを見るのがだんだんと辛くなってきた。それは私の中にそこまでのパッションがなかったからだと思う。受験が近づくにつれ、だんだんと私は、思うように課題作品をこなすことができなくなっていった。

当時も先生は私の作品を見て特に何も言っていなかったけれど、薄々感づかれていたんじゃないかなと思う。他の受験生たちは受験や絵の上達、その先の大学生活、もっと先の大学を卒業した後のビジョンを持ち、それに向かって毎日がむしゃらに描いていた。でも私は、大学に行きたいというだけでそのあとのビジョンが全くなかった。大学卒業後どういった道に進みたいのか、画家になりたいのかゲームクリエイターになりたいのか漫画家になりたいのか、何のために絵を描きたいの全然かわからなかった。

心に大きな空洞を抱えたまま絵を描いていると、自分がなぜこんなものを描いているのかと、余計なことを考えてしまうようになった。思うように描けない苛立ちも、自分が未熟なんじゃなくて課題が面白くないからだとそんなことを思うようになってしまった。

絵を描けば描くほど自分にとって美大受験が必要なのか、そこに行けば楽しい未来が開けるのかわからなくなってきた私は、画塾内に静かに漂う情熱の中で一人冷めた抜け殻のようになっていた。

12月になれば画塾でも受験対策のようなプログラムが組まれ、みんな追い込みの時期に入る。私はもうこれ以上ここにはいられないと思い、11月の末に月謝だけ渡して逃げるように画塾をでた。

「今日は月謝だけ持ってきました。」

そう言って月謝を手渡されたアシスタントの先生の、不思議そうな顔が忘れられない。結局最後の日、私は先生と話すことはなかった。先生と話したら、あの純粋な目で見られたら、もう平静を保てないところまで来ていた。20代半ばにもなって、受験前に泣き崩れる生徒にはなりたくなかった。そんなところでカッコつけなくても泣いて相談すればよかったのかもしれないけれど、誰かにすがってどうにかなる問題ではないことは明白だった。

その後、私は受験が不要の通信制大学があることを知り、会社員を続けながら週末大学生になることにした。よく考えれば一度大学を出ているのに会社を辞めてまた学部生からやり直すのはあまり賢い考えではなかったなと思う(大学院とか、他にも選択肢は色々あったのにね)。しかしその通信制大学も3年で辞め、なぜか会社も辞め、今は一人でこの部屋にいる。

「カネダインが3つ…少なくとも3枚はコラージュができるね。」

いろんなことを辞めたけど、まだ表現することは辞めていない。それが唯一の救いだなと思う。あの日感じたエクスタシーは本当で、これから先方法は変わっていっても、表現することは私にとって必要なことなんだろう。

もうあの画塾に行くことは一生ないと思うけれど、もし先生に会うことがあれば謝りたい。そしていつか自分が本当に真摯に自分の表現と向き合うことができたら、その時はお礼を言いに行きたいと思う。





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