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プラネタリウムで言語造形〜宮沢賢治『なめとこ山の熊』〜

言語造形という言葉を聞いたことはありますか?私はこの言葉を昨年初めて知りました。演劇とも朗読とも違うという言語造形。今日はその、言語造形をされている前田恭仁子さんの語りを聴いた体験を書き留めます。

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演目は宮沢賢治の「なめとこ山の熊」。
会場はプラネタリウム。
満点の星空の下で目を閉じると、そこは鬱蒼と木の生い茂る北の山の中だった。

前田恭仁子さんの声で語られる「なめとこ山の熊」は、その語りが始まった時から前田恭仁子さんという個人を認識できないほど、彼女の声はその物語を形造るカケラの一部になっていた。

それは個人としての個性が失われるということではなく、紛れもなく前田恭仁子さんの語りなのだけれど、前田恭仁子さんが語っているというよりかは、彼女が作品の一部となってそこに存在すると表現した方がしっくりくるような状態だった。

彼女の声は風であり山であり、滝を下る水であり銃声であり、村から立ち上る煙であった。その口から発せられる言葉が、私の周囲にそれぞれの物質として、宮沢賢治の描いた時代の体温みたいなものを伴って形造られていく。なるほど、これが言語造形か、と思った。

不思議なことにその語りはとても立体的だった。絵画のような描写ではなく、どちらかというとVRを体験しているような3次元的な奥行きを伴った世界が私を包み込んでいった。その世界の中には光があり、温度があり、匂いがあり、味があった。例えるなら、五感で感じる花火みたいなもの。語られた言葉はその瞬間に虚空に消えて見えなくなる、でもその残像ははっきりと私の周りに振動として残り、世界の部品として機能する。

一番印象的だったのは銃声の表現だった。「ズドン」と、文字にするとそれだけなのだけれど、彼女の語りはその銃声が森に響き渡る時の木々のざわめきや、驚いて飛び立つ鳥の羽ばたきまでをも表現していた。どうやってあんな風に表現するのだろう。誰かの語りを聞いて鳥肌がたったのは初めてだった。

迫真の演技をしているかというとそうでもない、押し付けがましくもない。

宮沢賢治が星々からこの物語を受け取った時に見たものがあるとしたら、この景色なのかもしれないと、そんなことを思わせるような生々しいリアリティがあった。

ところどころで宮沢賢治の心情が吐露されるシーンがあって、そこはズズズっと賢治の視点まで引き戻された。熊を狩る主人公は私ではないのだと、これは作家によって書かれた物語なのだと、物語の海から現実に引きずり上げられるような感覚があった。そういう意味では、2段階下まで潜っていたことになる(第一階層:宮沢賢治の目線、第2階層:なめとこ山の熊の主人公の視点)。

語りが終わると、夢から覚めるように少しずつ北の森から帰ってきた。でも今見た人生の一部が心の片隅に残っていて、神々しい月の光や黒い影がまだ私の後ろ髪を引いて離さなかった。

最後に、前田恭仁子さん独自の作品解釈が語られた。私は宮沢賢治が作品を通じて未来の人間に伝えたいことがあるとは考えたこともなかったのでとても新鮮で面白かった。

作家は作品を残し、その残したありのままの姿が一番良い姿だと思っていた。しかし、前田恭仁子さんによって言語造形された「なめとこ山の熊」は、1人作品を黙読するよりも、私を宮沢賢治に近づけた。

もちろん、あの時間あの空間で起こった出来事は前田恭仁子さんの言語造形という作品だ。人それぞれに感じ方は違って色んな解釈があって、正解も不正解もない。でも、わたしには、限りなく宮沢賢治が体験した出来事に近い何かを見せてもらった気がした。

前田恭仁子さんについて、詳しくはこちら

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