撮りたいものと能動感と
私がよく撮る地味めな写真に対して
「誰も見向きもしないような地味なもの」
という表現をする時があります。
でもずっと小さな違和感があって。
(地味という意識が無いのは別として)
本当は「誰も注目しない」かどうかは重要ではなくて、私が能動的に見つけた「美しいもの、惹かれるもの」を撮りたい。それが「誰でも美しいとわかるもの」でなくても。というニュアンス。言葉は難しい。
つまり、誰も見ないかどうかはわからないけど、私が美しさを感じるモノや場面、風景を見つけて撮る。それを今まで自分が見たことが無ければ、能動感が増してさらに楽しいという事。
ただ、そのレア感にこだわるとまた「純粋な楽しい」を逃すのだけれど。
それは、違和感が教えてくれたもの。
比較した先に見えた自分の価値観でした。
「これは誰も気づかないだろう」と撮るのと
「あぁこんなものがこんなに美しいのか」と思わずシャッターを切るのとでは、ドキドキの質が全く違う。地味なモノを撮ることにハマり始めた時に陥りやすい状態。突然鳴り始めてなかなか消えてくれないイヤーワームにも似ている。意識するほど消えてくれない。
他にも「これは誰々が評価してくれそうだ」「いいねがたくさんつきそうだ」など色々な雑念が増えていく。
それで自分が幸せなら、何も問題はないのだけど。そういった雑念はだいたい作品の「個性」を削っていく。
ちなみに、個性と言うのは「他と違うこと」とは限らないと思っています。そう考えると迷子になる。自身(心)がそこにあれば、それは全て個性のある作品。良いも悪いもない。
話を戻します。
作品作りは、自分の価値観、興味と向き合うこと。
なぜ私が自分を知ることを重要視しているかと言うと、自分と上手く付き合いたいから。上手く付き合えないと、人生の難易度が上がる事を知ったから。大切な人を大切にするには、まず自分のコントロールをある程度できなくては。それがなかなか難しいんだけど。
ちょっとした考え事をまとめてみました。
まとめておくと、誰かと話す時に楽なので(笑)
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