見出し画像

はっきりさせないことで生まれるなにかがあるかもしれない

自分が何かを見て、何かを聞いて、誰かと出会い、話をして...というような何気ない日常の中で生まれる自分の中の些細な『なにか』。
この『なにか』を具体的に定義しようとすることが、たまらなく恐い。

日曜日、数少ない大学の友達と買い物と食事に行ったときのこと。
彼女とは大学2年の頃に仲良くなった気がするが、具体的になんのきっかけがあったか覚えてない。気づけばお互いの好きな人の話や人生観など、他の人とはできないような話をする中になっていた。

僕は性格が自他ともに認める男っぽくない感じなのもあり、より深い話ができる友達はどちらかというと女性に多い。
ただその多くは中高の友達など、昔からの友だちが多いので、彼女のように大学でできた深い友達は本当に貴重。

そんな彼女との何気ない会話で、気軽に呼び出せる数少ない友達と言われたり、お互いの弱いところも含めた、より深い話をすればするほど、些細な『なにか』が少しずつ積もっていく感覚がある。

こういった何かをより具体的に決めつけるのが恐い。決めつけたときにそれをもとに行動していくと、それはもはや自分でない何かで動いているような感覚になるから。
そしてそういう行動の仕方をしたとき、ほぼ間違いなく今まで失敗し、後悔してきた。

今の僕の考えでは、むしろ何かを自分の中で定義することは、自分のこれからを狭めていくことにもなるんじゃないか。ということ。

自分の中で生まれた『なにか』をその時点で定義しそれを自分の中からすくい取って外の世界に持っていき行動することは、これからさらに生まれるであろう別の『なにか』との積み重なったときを味わえないことだと思っている。

だから今はこの生まれた『なにか』を決めつけないでもうすこし彼女と過ごしてみようと思う。

ある種もやもやして、これをはっきりさせて行動したいという欲求もあるのだが、このもやもやと少し一緒に生きてみるのもありかなぁと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?