カマキリの色即是空
因果の「果」に実体はないとカマキリは言う。
「因」と「縁」、あらゆる存在が互いに関係し合い、その結果として「果」が生じるんだとアマガエル君が言ってたけど、その「果」は実に不確かなものなんだよね。我々は確かに存在していると思っているけれど、実は「果」は「因」と「縁」がかりそめにくっついて現れているだけで、「縁」が消滅するとたちまちに消えるのさ。
インドの龍樹菩薩はこのことを本来一切は「空」であるとおっしゃってる。これが『般若心経』に「色即是空 空即是色」と書かれている釈迦の縁起の理法さ。
「色」は目に見えるこの世のすべての事物や現象。
「空」は固定的な実体がなく空無であること。
つまり、この世の中のありとあらゆる形あるものは、流動的に変化している『状態』として存在しているだけの仮の姿。物質がかりそめに集まって形をつくっているのであって、本体自体が不変なものは何一つ存在しないってことなんだよな。
だけど人間は「空」ということがよく分かってないから、「果」はいつまでも変わらないと思っているし、変わらないで欲しいと願ってるんだよね。流動的だからこそ思わぬ病気にもなるし、事故にも遭う。そこに人間の苦が生じるわけだけど、とにかく「果」は「縁」が尽きるとたちまちに消えるということさ。
ただ、「空」とは「無」=『何もない』ということではなくて、固定的実体がないということだから、そこんとこが分かりにくくて難しいんだけど、つまり龍樹菩薩は自我や世界を構成するものの恒存性を認める誤った見解を否定してるわけさ。
なるほどねえ。だから『無常』なんだ。
たとえば、目の前にあるこの本も、綴じられた状態であるから本というのであって、もとはといえば紙とインクなわけで、「綴じられる」という縁が切れてバラバラになってしまうともはや本とは言えない。だけど紙とインクは残ってるから『何もない』ということじゃない。
たとえば、冬になると着るセーター。編まれているからセーターという形になっているけど、ほどいていったらただの毛糸で、「編まれる」という縁が切れるともはやセーターとは言えない。だけど、なくなってしまうわけではないから無ではないわけか。
もっと細かく分けたら、ありとあらゆる物質は分子や原子の集合体だもんな。ということは、私の身体も様々な縁によって分子や原子が集まってたまたま私になっているだけで、やがて人としての「命の縁」が尽きたら、私を構成している物質はたちまちバラバラになって、私という存在ではなくなるってことなんだよね。だけど、全部消えて無になるわけじゃない。また再構成されて次の命を生きるってわけか。そう考えると不思議だよなあ。
我々はこうして生まれては死に、死んでは生まれるを繰り返していくわけさ。でも、次も人間に生まれるとは限らない。だから
人間という状態でいられる「今」を大切に生きろよ
ということなのさ。
今日すべきことは明日に延ばさず
確かにしていくことこそ
よい一日を生きる道である。
by ブッダ
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