見出し画像

願掛けだけじゃ、うまくしゃべれるようにはならないから

「うまくしゃべれるようになりますように」

なんて切実な願いだろう、と思った。

「うまくしゃべれるようになりますように」

青森県の十和田現代美術館のなかにある展示物のひとつ、「念願の木」にそんな願いが書かれている短冊がぶら下がっていた。
いしかわゆきさんのnoteより

どんな人がどんな想定で書いたのかも分からない願いだけど、胸に刺さって抜けない。

うまくしゃべれるようになりますように、と願掛けしたいのは、他ならぬ自分だ。

ゆきさんはご自身がうまくしゃべれない理由を「自分の話なんておもしろくないし」という自信のなさ、と仰っているが、私は自分に話の内容の面白さなんて求めてない。

だってそれ以前の問題として、私の話って超絶分かりにくいからだ。

自分でも分かる。

言葉が口から出る直前まで、たくさんの言い回しや単語がグルグルしてて迷っている。
本当に口の中でもにょもにょと言葉が動いてるような感じすらある。
で、ギリギリまでもにょもにょされたそれは、どもったり文法的におかしかったりで、非常に伝わりづらい。

そもそも話の主軸を上手く捕まえてられなくて、頭に浮かんだエピソードをただただ漏らしてしまう事が多い。時系列もぶっ飛んでて、相手を混乱させる。
何の話をしていたか、会話しながら覚えていることも本当にできない。

そういう一連の「苦手」は、多分ADHDの特性なんだろーなー、と思う。
「特性」って言葉は優しいけれど、組織の中で生きるなら致命的に「ただのバカ」だよね。(私はADHDについて調べてる時、そう感じた)
優しい言葉はたくさんある。
ぽんこつ、天然、マイペース、自由…
マイルドで、そのままでいることを許してくれるような言葉たち。

でもやっぱり、本当に本気で「ぽんこつ」「天然」に甘んじてたら生きていくのは難しい。

例えばゆきさんは、このように書いている。

「なんかうまく言えないんだけどさ」と前置きしておくとか。
いっぺんには言えなくても、言葉足らずなところをあとで補足しておくとか。
テキストコミュニケーションで挽回するとか。
いくらでもやりようはあるんじゃないかと思うのだ。

うまくしゃべれないことは受け止めつつも、ではどうすれば伝わるか?は、ちゃんと自分で考えてる
私にはこれが圧倒的に足りない。

私の夫は超クソ論理的理系脳で、しかも先生という仕事柄、言葉の選択や話の流れの組み立てにとても厳しい。
私のしゃべりの下手さに始終イライラしているように見える。

私はずっと、「なんでこのままの私でいいよって言ってくれないの?」って思って泣いてた。
私だって、ちゃんとしゃべりたいよ、楽しく話したいよ、でも出来ないんだよ…!って。

でも違うんだよね。夫がイライラするのは、私のしゃべりの下手さじゃなくて(いや、下手さにもイラついてると思うけど)
工夫の無さなんだ。思考を放棄する姿勢なんだ。

しゃべるの同様、考える事もあんまり得意じゃなくて。
でも、まず何が苦手でなんで上手く話せないか。話せない時の私の状態はどんな風なのか。
そんなことから、書き出してまとめてみるのも良いかもしれない。

ADHD外来初受診まで、1か月。
有意義な時間にするために、できることはしとこうと思う。
諦めたら、そこで試合終了だよ。


でも気合いれすぎるとまた落ち込んだりもするので…
この本も読みたいな!
できればポンコツな私で生きていきたいもんw


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?