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0228_誠実な人よ

「ごめんな」

 そんな言葉が聞きたいんじゃないよ。あなたの口からそんな殊勝な言葉は聞きたくなくて、そんなことより、いつもみたいに不機嫌に睨んで、私を。

 彼はいつも、私の思うようにはしてくれなかった。会いたいと言っても無理だと言われ、そうかと思えば、私の予定を無視して会いに来る。私だけを見てと言ったところで、彼には何人も女性がいたし、なんだったら男性もいた。たくさんプレゼントしたけれど、何かをもらった記憶はない。連絡はついたりつかなかったり、全てが不確実だった。
 
 でも、私は彼が好きだった。
 ずっとずっと、好きだった。
 好きで好きで、仕方がなかった。

 多分、いわゆる恋人同士ではなかった。なんとなく、もうだめなんだろうなと思って、ついにぱたりと連絡がなくなった頃、やっと私は彼に縋るのを止めた。連絡先を消し、諸々のアカウントを変更し、例えば万一、彼が私に連絡を取ろうとしても取れなくなるように、私にそれが届いてしまわぬように、遮断した。
 気づけば彼と出会って10年が経っていた。

 でも、日本はやっぱり狭いのかもしれない。全く連絡出来ないようにして1年後の今日、たまたま入った都内の本屋に、彼がいたのだ。気付いてすぐに逃げれば良かったのに、その姿を見て、私は固まってしまった。だって、私の、あのときの、あの頃の全てが目の前にあるの。固まった私に、彼が気付いた。彼もまた少しだけ驚いたようで、一瞬顔が強張ったように見える。そして、数メートルの距離をあけて対峙した。たかが1年ぶりだけど、私にとってはこの1年の中には捨てた10年があると思っているからやけに重い。何かを口に出したいと思うが、口も手も足も出ない。そうしているうちに、彼が近づいてくる。一歩一歩が1年ずつ遡るようで、私は怖い。
 もう、触れられそうな距離にいる。彼はピタリと足を止めた。そして、小さく、けれどちゃんと私に聞こえる声で「ごめんな」と言った。それがまるで正しいかのように、それだけを言って、彼は私の横を抜けて去っていく。

 私は、堪らずにいた。
 そんな言葉が聞きたかったんじゃないよ。ごめんなんて言ってほしかったんじゃない。そう思うし、口にもしたいのに、何一つ言葉にできなかった。
 代わりに私はやっと理解した。彼は不確実だったけれど、不誠実ではなかった。だって、彼は私を好きだと言わなかった。愛しているとか、君だけだなんてことも言わなかった。ただ、私といたい時にいて、そうじゃなくなったから2人離れただけで、嘘も何もついていないのだった。彼は、彼の中では確実に誠実であったのだ。
 多分、私は10年を捨てられない。でも、それでもいいかと諦められる程度には清々しかった。
 ああ、誠実な人。


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