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0328_もうええわ

 子供が泣いた。

「ママ、私を抱きしめてくれない」

 子供は小学5年生で、殊更幼いわけではない。クラスの学級委員長になる程度にはしっかりしていると、親の私も思う。
 でも、その我が子が今日、そんな理由で初めて泣いたのだった。私は自分の行動を振り返る。でも、5分前にも抱きしめたのではなかったか。

「ママ、ちゃんと花菜のこと抱きしめてるよ」
「でも抱きしめてくれてない」

 難問が立ちはだかり、私は眉間にシワを寄せる。見ていないテレビの音が段々と聞こえなくなり、ただ、テレビの画面の中が静かに動いている。不思議とテレビの画面の中が見えなくなることはないのだなぁと思っては、今を思い出す。目の前の花菜は大粒の涙を流していた。

 私は彼女を抱きしめなかったか。腕の温かさや、あっという間に大きくなったと思わせる頭や肩の高さを私はちゃんと感じている。でも、今、ここにそれはない。もしかしたら、抱きしめていたと思っていただけで本当は抱きしめてなどおらず、残る感触は昨日にでも抱きしめたそれだったのか。
 昨日は抱きしめた?この感触はいつのもの?
 じゃあ、私は子供を抱きしめずに何をしていただろう。

 仕事が繁忙期でこの1週間は確かに疲れていた。家の中にいてテレビを見ていても心此処にあらずとなっていたのは否めない。夫の問いかけには全てYESとしていたようにも思う。その証拠に、彼は今日も飲み会らしい。だから、私はずっと疲れている。

 なんで。

 私は彼女を愛している。一方で仕事は取り立てて好きではない。それなのに、仕事で頭がいっぱいだったと言うことが、今、ここで彼女の涙として床にポタリと落ちた。それに対して、すごくすごく悔しくて悲しいと自分がちゃんと思っていることにやっと気付いた。

 私は花菜を思い切り抱きしめる。それとほぼ同時に、わぁん、と最近聞かない大きな彼女の泣き声を聞いた。

「ママ、ちゃんとギュってしてよぉ」

 泣きながら私に訴えていた。
 私は、好きでもない仕事のために好きなものを疎かにしたのか。いつから。わからない。そう思うと私も泣いた。

「ごめんね」

 私が言うと花菜の声はピタリと止まる。

「大好き」

 顔を上げ、私に向けてそう言った。
 私は、これを見ずして何を見たかったのだろう。他にはないはずであり、これが全てである。

 テレビの音がふっと耳に入ってくる。わぁわぁと騒がしいお笑い番組だ。なんとなしに二人してテレビに顔を向けると、漫才が終わりかけていた。向かって右の人がにこりと前を向き、右手の指先をピンと伸ばして肘から上を曲げた。

「もうええわ」

 ふっと、花菜が笑い、私もつられて笑った。笑える内容など見ていないのに笑った。花菜の頭を静かになでて、小さな声で私も呟く。

「もうええわ」

 明日から定時で帰ることにした。

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18時からの純文学
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★著者:あにぃ

※今日は18時に公開できませんでした。仕事が終わらなかったわけですが、それで今日を落とすことが本当に嫌だった。簡単なことでした。仕事より創作執筆が好き。それだけだった。
これからもよろしくお願いします。

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