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IBM JXのマニュアルを書いた話

 マイコンベース銀座で、IBMマルチステーション5550のパソコン教室が始まったのは1984年6月。
 1年2ヵ月経ったとき、オムロンマイコンシステムズから、インストラクターとは別の仕事の依頼があった。

 新製品の家庭用パソコン、IBM JXの講習用マニュアルを書かないか、というものだった。
 家でパソコンを使うとどんなことができるのか、具体的に例を挙げて、それの操作手順を説明するマニュアルだ。
 もちろんマニュアルなんて書いたことはなかったが、面白そうなのですぐに引き受けた。

 マニュアルは日本語ワープロとマルチプランのそれぞれを、主婦向け、会社員向け、学生向けに3種類、合計6種類作る。
 マシンを1台家に送ってもらったので、それを操作しながら手順を書き、必要に応じて画面のハードコピーを撮った。

 原稿は、趣味の会からワープロ専用機の富士通オアシスを預かっていたので、それで作成した。
 趣味の会は会報を作るのにオアシスを使っていたのだが、置き場がないので我が家の私の書斎に置いて、週末だけ会の編集スタッフが使いにきた。
 平日はだれも使わないので、私が使っても構わなかった。

 マニュアルにはどんな例をあげたらいいか、主婦向け、会社員向け、学生向けそれぞれに考えるのが大変だった。
 例えば、日本語ワープロで年賀状を作るとか(これは共通)、主婦向けにはマルチプランで家計簿を作るとか。
 作るものが決まったら、JXでサンプルを作成して、できたものの画面のハードコピーを撮った。

 オアシスの原稿には貼り付けるスペースを取っておいて、印刷してからハードコピーを切り貼りして版下を作った。
 プリンターはJX用に送ってもらった記憶はないので、オアシスで使っていたプリンターにケーブルをつないで印刷したのだろう。

 マニュアルは9月に書き始め、納期が2週間後だったのでインストラクターの仕事は辞めた。
 それでも昼間だけでは時間が足りず、お風呂に入っているときと寝ているとき以外は、食事も食べ食べやっていた。
 夜遅くまでやっていて、夜中にふと目が覚めて書くことが閃いたら、とても眠っていられなかった。起きて書斎に行き、オアシスを起動した。

 毎日、疲れた、疲れたと連発していたので、その後リコーのワープロを書く仕事をしたときは母に呆れられ、「もうやめなさい」と言われた。
 私もJXのマニュアルが終わったときは、「こんなハードな仕事、もう結構」と思ったが、喉元過ぎれば何とやらで、これはもう半分ビョーキだった。

 報酬は60万で、翌月に一括して銀行振込してくれた。
 現在テクニカルライターにマニュアル作成を依頼すると、ページ単価で数千円掛かる。
 全部で何ページ書いたか覚えていないが、主婦向け、会社員向け、学生向けで重複するページもあったし、マニュアル書きは初めての私にとって、2週間でこの金額は破格だった。

 後で聞いた話だが、実際に講習会で使うかどうかはともかく、JXでできることを見せるために、具体的なサンプルが載ったマニュアルが必要だったそうだ。
 まだテクニカルライターという職業がなかった時代で、現場で教えている人ならマニュアルが書けるだろうということで、私に声が掛かったとか。
 マイコンベース銀座で教えていたインストラクター3人のうち、私に声が掛かったのはラッキーだった。

 こうして、ほんのちょっとした興味で始めたことが、時代の波に乗って、IT業界へと私を導いてくれたのだった。

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