認めてもいいよ、岡田斗司夫のサイコパスゆえの過ちを。

岡田斗司夫のガンダム講座を毎回愉しく視聴している。ただ、長く聞いていると、岡田斗司夫の「サイコパスゆえの過ち」にも何度か遭遇している。非難しているのではないし、反論したいわけでもない。むしろ、「フツウ」の人には簡単にわかるのに、サイコパスには分からないことを具体的に示してくれて、興味深いくらいだ。キャラクターの心情に対する岡田斗司夫の解説は、時々、耳の聞こえない人の音楽解説のようになるが、それはそれで、独特でオモシロイ。

ひとつ、喩え話。ここに、殆どすべてが地球人と同じだが、ただひとつ排泄の必要がない点だけが違う異星人がいる。彼の目の前で、おっぱいを飲んだばかりの〔地球人の赤ん坊〕が激しく泣いている。彼は、なにか悪い病気じゃないかと心配になり、ハイテクな検査装置で赤ん坊を調べようとする。そこに赤ん坊の母親(地球人)がやってきて、慌てず騒がす、赤ん坊のオムツを交換する。赤ん坊はけろりと泣き止む。

では、岡田斗司夫の「サイコパスゆえの過ち」の具体例を見てみよう。
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ガルマの葬儀についての「家族会議」で、ドズルが怒鳴っている理由が分からなくて、解釈をこじらせる。

ザビ家の面々がガルマの国葬をするしないでモニョモニョやってる場面(「イセリナ、恋のあと」の中の場面)のドズルの振る舞い(演技=怒る・怒鳴る)に違和感を覚えたという岡田斗司夫の解説動画に違和感を覚えたので、少し、余計なことを考えてみた。

あの場面のガルマの葬式に対する4人の立場は以下の通り。

  1. ギレンとキシリアは、せっかくだから国葬をやって戦意高揚に利用すべきだと考えている。

  2. デギンは一人の父親として、最愛の末息子の葬式を戦意高揚などに利用したくないので国葬は嫌だと考えている。

  3. ドズルはいずれにしろ葬式はするんだから、国葬でも「家族葬」でも構わないが、父(デギン)が国葬を嫌がってるのだから、国葬はしなくてもいいじゃないか、と考えている。

(1)と(2)は発言がそのままなのでわかりやすい。わかりにくくなるのは(3)のドズルの発言。ドズルは怒ったようにこう言うからだ。

「いや、それよりもシャアの処分だ。ガルマを守りきれなかった奴を処分すれば、それで国民への示しがつくわ!」

このドズルのセリフは、不甲斐ない〔戦場の英雄〕シャアに対するドズルの怒り(シャアにペナルティを与えたくて仕方ない)というふうにも取れるが、肝心なのは、最後の「それで国民への示しがつくわ!」の部分。

ドズルのセリフの真意を言葉を補足して言い直せば、「ガルマの国葬で戦意高揚を図るのも結構だが、ガルマが死ぬほどの劣勢状態が戦場で起きていると思われてはまずいから、ガルマの死は英雄シャアの失態だということにして、国民が弱気になることを防げば、それでいいじゃないか。なにより、国葬は親父が嫌がってるんだから、シャアの処分だけで、この危機(国家的英雄の死=ガルマの死という大事件)は乗り切ろう」ということ。「ガルマの死」をプラスにしなくても、「ガルマの死」のマイナスを回避するだけで充分だろう、と。

肝心なのは、ドズルがことさらに言い立てる「シャアの処分」は、実は「ガルマの国葬はやらない」とセットになっていること。つまり、ドズルは、デギンの気持ちを気遣い、デギンの思い通りにしてやろうとしているのだ。

じゃあなんで、ドズルは「声を荒げて」いるのか? のちの「ソロモン戦」の場面を見れば、元々そういう喋り方しかできないというわけでもない。副官のラコックや奥さんのゼナには優しく静かに話しかけているからだ。あの「家族会議」の場面でドズルが声を荒げているのは、頭が良くて弁の立つギレンやキシリアには、議論では到底かなわないとわかっているので、他にどうすることもできずに、とりあえず、シャアに対して怒りを表しているふりをして大声を出すことで、いわば、雰囲気や勢いで自分の意見を通そうとしたのだ。中身の説得力ではなく、「言い方」で意見を通す戦術(現実世界にもそういう人は多い)。

もちろん、そんなコケオドシがギレンやキシリアに通じるわけもなく、あっさりキシリアに退けられるのだが、デギンはちゃんとドズルの気遣いを理解したうえで「シャアは左遷させておけ」と指示を出す(これが、デギンが国葬を了承したセリフにもなっている)。
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アムロの夢の中に出てきたマチルダの声が聞こえない理由が分からなくて、解釈をこじらせる。

アムロが自分の夢の中に登場させた「あのマチルダ」は、現実では「寝るのもパイロットの仕事のうちですよ」と言っているのだが、アムロが恋い焦がれるマチルダの口から聞きたいのはそんな業務連絡じみたことじゃないのは明らか。かと言って、彼女に喋ってもらいたい他の「セリフ」もアムロの無意識=夢の脚本家は「思いつかない」。だから無言。というか、夢なんだから、初恋の人のイメージさえ見られればそれでいいのだ。

そもそも、アムロは、現実のあの場所でも、マチルダに「見とれて」いて、彼女の言ったことが全く耳に入っていないか、もしくは上の空で聞いていたので、夢で見たときに彼女の「言葉」が「出てこなかった」ということも充分あり得る。恋する思春期男子って、そんなもんだろ。

〔初恋の人が夢に出てきて、でも無言(声は聞こえない)〕は、不思議でも何でも無い、だから、特に隠された意味もない、ごくありふれた夢。
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アムロがガンダムを「盗んで」脱走したことに腹を立てているホワイトベース乗組員の気持ちが分からなくて、解釈をこじらせる。

岡田斗司夫は、最初に、アムロが脱走するエピソードを見たとき(大学生くらい?)、ガンダムに乗って脱走したアムロに対して、ホワイトベースの他のクルーたちが腹を立てている理由が分からなかったらしい。サイコパスでない我々からすると、わからないということがわからない

「フツウ」はむしろ逆で、「日本中」が、「なんで、ガンダムに乗って行くんだ、一人でいけよ、アムロ!(せいぜいバギーで)」とテレビ画面に向かってブーイングを送ったはずだ、と考える。体一つでホワイトベースから逃げ出すならまだしも、ガンダムに乗って逃げ出すなんてのは、実質、残されたホワイトベースのクルー全員に対して、「お前ら全員、ジオンにやられて死んでしまえ」と言い放ったのに等しい行為。なぜなら、ガンダムの不在が、ホワイトベースに致命的な事態を招くであろうことは、それまでガンダムを操縦していホワイトベースを「守って」きたアムロ自身が一番よく分かっているはずだからだ。

と、こんなことをわざわざ説明しなくても、アムロに自分たちが一番頼りにしている武器であるガンダム(アムロの私物じゃないからね!)を持ち逃げされたホワイトベースのクルーに感情移入すれば(立場にたてば)、ホワイトベースのクルーが全員、多かれ少なかれアムロに対して腹を立てているのは、ごく自然な当然の反応にしか思えないはずなのだ。それが分からないというのだから、やっぱりサイコパスって「わからない」よね。
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ソロモン戦で、シャアがララァに、ドズルがゼナに触れる理由が分からなくて、変なフカヨミをする。

「ソロモン戦」で、シャアがララァの肩に触れたり、ドズルがゼナの頬に触れたりするのを、岡田斗司夫は、〔もうすぐ死ぬかもしれないと恐れを感じているシャアやドズルが、自分の好きな女に触れることで安心しようとしているのだ〕と解説していたが、それは違う。シャアやドズルは、大事だと思っている女をただ気遣っているのだ。これから初めて本当の戦場に行こうとしている少女(ララァ)や、もうすぐ自分は夫を失うことになるのだとおののいている妻(ゼナ)を、恋人や夫が気遣っているだけ自然な場面。どこにも「不自然なところ」はないし、だから、取ってつけたような行動でもない。サイコパスにはこのテの気遣いができないので、あの状況でのシャアやドズルの「女に触れる」という行動に「なにか特別な意味」があるように思ってしまうのだろう。あるいは、だから、(自称サイコパスの)岡田斗司夫は、女に対してこのテの気遣いをしたことがないに違いない、と勘ぐったりもしたくなる。


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