君の名は。

タイトルに惹かれて開いてくれた見る目のあるそこの君、名前は?
あぁ、タイトルにではなく私に惹かれて開いたのね、え、今引かれた?

お久しぶりです。アンナさんです。
皆さんの名前の由来はなんですか?知っていますか?ぜひご両親に聞いてみてください。私の名前の由来は実は聖書に出てくる登場人物なのです。
クリスチャンであればお馴染み、そう、ルカによる福音書に登場する女預言者のアンナ・・・ではなくサムエル記上に登場する預言者サムエルの母、ハンナです!引っかかったな!!!やーい!やーい!(ハンナをギリシア語で読ませるとアンナ)

えー、今回は名前についてのお話。聖書を読みながら、説教で、日常生活で気づいた名前に関する驚くべき神のご計画を話していきたいと思います。

きっかけは日曜日の小さなエピソード

何故名前に関する話をしようと思ったのか、そもそもこんな話をしたくなるなんてつい1週間前までも思わなかったのだから神の計画導きがいかに人間にとって急に感じることか。つくづく備えることの大切さを実感する。今回もしっかりiPadとキーボードの充電をしこの記事をいつでも書けるよう準備しておいたのである。

私が一番準備をしっかりするのは土曜日である。次の日の礼拝に備えてまず祈り、献金やノート、子供の着替えやガーゼなど物質的な準備、できるだけ家事をしなくてもいいように家を整理し、賛美チームなので歌の練習や喉のケアなど念入りに色々な面で準備をする。

神様に対する期待を込めて臨む礼拝で語られたメッセージの途中のことである。その日は使徒言行録に登場するバルナバについてであった。バルナバとは慰めの子という意味があるという説明の流れで、自身の名前の由来について韓国人宣教師が話し始めた。
その宣教師の名前は和宗と書くのだが、彼の両親は彼が家庭で平和を育むようにとその名前をつけたらしい。しかし彼はクリスチャンとなりその由来を次のように再設定した。自分の家庭にとどまらず、神の家族が集うこの教会という家庭でも平和を育んでいけるようにと。そのことがなんとなく私の耳に、心に残ったのである。

ちなみにバルナバも元はヨセフという名前であったが、彼の献身的な生き方故に皆から慰めの子、バルナバとあだ名をつけられ、そのまま名前となったのだ。

別名

先ほどあだ名の話をしたが、私にも別名がある。
私は韓国では韓・ボムと登録されているのだ。ボムとは春という意味である。
爆弾が頭によぎった人は正直に手を挙げなさい。

私の通う教会でも、時々私をボムの方で呼ぶ人がいる。
担任牧師の息子である林くんもそのうちの一人だ。

バルナバの説教から2週間が経とうとしていたとある土曜日。
この日は夕方から賛美チームの練習があったのだが8人いるうちの2人しか練習に来なかった。私と林くんである。

林くんは私を見て「さぁ練習しますか〜、スプリング」と言いながらギターを手に取った。それを聞いていた和宗宣教師が何故スプリングなのかと質問をしてきた。

実はこの名前の由来は単に私が春に生まれたからである。夏生まれの弟は夏という意味のヨルムと登録されている。ちなみに父も仲間に入りたかったのか、いつからかラインのユーザーネームがカウル(秋)になっていた。とにかく、そんな深い意味が込められているわけではないと説明したら、再設定しましょうと返ってきた。あぁ、あの時説教で言ってた話ですね!ただそれで終わり賛美の練習が始まった。

単なる雑談であった。そう思っていた。1日のうちのほんの数秒のやり取りであったのに、私の記憶にとどまり続けた。まるで忘れないでと訴えかけているようだった。

弾けたのは日曜日の中心エピソード

また日曜日がやってきた。この日は久しぶりに家族みんなで捧げる礼拝であった。
賛美も無事に歌い終わり説教の時間がやってきた。今回は女性伝道師を通して御言葉が取り継がれた。場面は創世記に登場するヤコブが神と格闘し新たな名前を与えられる箇所だ。また名前に関する話が、今度は説教の一部ではなく大半を占めていた。

ヤコブは双子の兄であるエサウのかかと(アケブ)を掴んで生まれてきたことからヤコブと名付けられた。ボムより適当な名付けである。
その名の通りヤコブは人のかかとを掴んで引き摺り下ろすような人生を歩んでいた。
兄から長子の権利を奪い取り、祝福までも騙し取った。神はそもそもそうなることを約束していたがヤコブはそれを自分の手で成し遂げようとしたのである。
その結果エサウをひどく怒らせ家出せざるを得なくなったのであった。居候先のラバンの元をも後々離れ去ることとなり、あんなに怒らせてしまったエサウと再会することに。自分の罪の刈り取りをしなくてはならない恐怖に震えヤコブは祈りに祈った。私が土曜日にしている準備の数倍は念入りに準備をした。その夜ヤコブは何者かと夜明けまで戦うこととなる。その激しい戦いによりヤコブは腿の関節(股関節)が外れてしまうが、それにも関わらず祝福を求めたのだった。自分が砕かれ謙遜に、そして切に主を求める信仰が芽生えた瞬間であった。

「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ。」

聖書 新共同訳 創世記32:28〜29

お前の名は。である。
聖書では神が新たな名前を授ける場面がこの他にも多くある。アブラムがアブラハムに、サウロがパウロに、シモンがペトロに。このような、その人を表しているとも言える名前の変化が内面の変化、信仰が与えられたことによる生まれ変わりを指しているという解説だった。かかとを掴む者から神が共に戦う者、イスラエルとなったヤコブの話に私は胸を打たれた。そしてもう一度自分の名前を振り返ってみようと思ったのである。

アンナとハンナの春

私は今まで、自分がハンナから名前を取られていてもあまりハンナとは似ていないと感じていた。それはごく普通のことであり当たり前なことである。しかし何をもって似ていないと判断していたかというとハンナといえば不妊であり、祈りによって子供を授かった人というイメージである。私は不妊ではないし、どちらかといえばダウン症と診断された胎の中の私のために祈り倒し、ギフテッドを出産した母の方がハンナである。(ダウン症が劣っているという話ではないので誤解されぬよう)

しかしギフテッド、才色兼備なアンナさんは幼い頃から人に嫉妬され、向けられる嫉妬や妬みから来る攻撃に心を病んでしまっていたのだ。これは自慢げに面白おかしく書いているが本当にトラウマなので羨ましいとか言われたり褒められたりするのが実は苦手である。話を戻して、まさに側女に妬まれいじめられ苦しんだハンナと同じところを見つけたのである。それに気づいた時私の中の点と点は繋がり衝撃が走った。

ハンナが祈りによって子供を授かったように、私も祈りによって霊的な子供を授かっていく人生になるのだ!この名前は母を通して神様がつけてくださった名前だったのだ!!何と光栄な・・・。

そして春という名前を今この記事を書きながらリアルタイムで再設定してみよう。
聖書で春といえば春の雨とも呼ばれる後の雨である。穀物を増産させることに必ず必要な雨が春に降る雨だ。自分の息子ももちろんのことだが、私の霊的な初穂であるマイダーリンを始め、これから出会っていく兄弟姉妹たちを立派なキリスト者として立て上げていく人生。神様が名前を通して思いもよらない壮大な希望を見せてくださった。
これは私自身に主の恵みが春の雨のように降り注いだ故の気づきであったことは間違いないであろう。今回のこと、そして今後も神の栄光のために働けるよう祈っていきたい。

終わりに

自分の名前が嫌いなんて話も聞いたりする。でも、あなたの名前にはあなたもあなたの両親も想像できない神の計画がある。ぜひ最後まで読んでくれた心優しいあなたも名前について黙想してみてはいかがでしょうか!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?