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「選択的夫婦別姓制度」反対論

 追記(4/27):補足④の詳細な説明を行いました。

 追記(10/18):補論を追加しました。

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 Twitter上で、はたまた政府の中で度々話題になる選択夫婦別姓制度(以下別姓論)導入に関する議論。俺もその度にこの制度に関する拙論らしきものをTwitter上でぽつぽつ呟いていたのだが、いい加減「良識派」共による「別姓論反対派は時代遅れだよね(ドヤ」のような意見が猖獗を極めていることに対しての苛立ちが爆発したため、今回noteに纏め上げようとした次第である。本論とは関係ないが、「良識派」共はいくら時代についていけていようと、そもそもSNSをやっている時点で人として恥ずかしいのだという「良識」程度は持つべきである。その程度も弁えない人間が語る思想など、チラシの裏に殴り書きして燃えるゴミに出すのでちょうど良いだろう。

 前段の文章からも窺えると思うが、俺としては別姓論に関しては導入に「反対」の立場を取っている。それを踏まえた上でお読みいただければ幸いである。

ただ選択肢が増えるだけ?伝統的な家族観について

 制度導入に際して、ひとまずタイトルにあるような主張がなされることが多い。もちろんただ選択肢が増えるだけなどということが起こるはずもなく、それ自体が社会の「変革」を良くも悪くも促す。法制度には、多かれ少なかれその正当性を支えるイデオロギーが存在するからである。

 そしてここは共通理解を得たいところなのだが、別姓論の肯定は、それが何であれ新しい家族観の肯定、称揚そのものであるということである。つまり、現行の「夫婦は同姓でなければならない」という法制度にも、ある程度「家族とはこうでなければならない」という共通理解があり、別姓論はそれを塗り替えるものになるということだ。ただ選択肢が増えるだけ、ということは起こり得ず、それは家族観の変更を迫るものになる。なぜなら、別姓論によって導入される、公的に選択可能なものとしての家族観そのものが、既存の家族観と対立しているからである。この点に関しては後述するが、つまりこの問題には、苗字を変えると仕事場での変更が面倒くさいなどと言うような生活の話だけではなく、思想的対立が内包されていると見なければならない。

 さて、明治維新以降の近代の家族において、なぜ夫婦同姓の強制が法で定められたか。私見では、それは「共同体意識」というものの導入のためと思われる。自民党的な言葉で「絆」と言い換えてしまっても良いかもしれない(※①)。

 こういうと少々抽象的だが、それはつまり「役割を持つ個人による共同体の作成」とでも言えようか。核家族で言うならば、その「家」に集まった人達が「父と母と子供」という役割をそれぞれ(無意識的であれ)享受し、子供を育てるための共同体を作る。ここにおいて、苗字が共同体を統合するための一種の「象徴」になるのだ。つまり、ファーストネームがその個人の私的側面を照らし出すものであるのに対し、苗字というものが個人の公的な側面を照らし出すものとして理解される、ということである。それは、常に一方で外に開かれた公的な側面に揺れ動き、一方では孤独を抱え私的な側面を揺れ動く人間という存在のメタファーでもある。

 またここにおいて、現行の法制度の下でなぜ女性が男性に苗字を合わせる傾向が強いのか、ということも理解できよう。つまり、家族の公に対する態度を象徴し、それを子供に教育する役割は、凡そ家族の外で活動することが多い父親によって担われる、ということである。

 俺自身保守派であり、伝統を重視する立場であることから、別姓論者からの反論として「日本は江戸時代以前は夫婦別姓だったが、その伝統を壊すのか!」という愚にも付かないそれを受けることもあった。そもそもその意味での夫婦別姓は「慣習」と呼ばれるものである。そして明治維新において日本を取り巻く状況が決定的に変化してしまった以上、我々は「慣習」の奥に潜む「伝統」を「思い出す」ことによって受け継ぐしか無い。そして日本においてどのような伝統が受け継がれてきたか。やや抽象的で議論の余地があるとは思うが、俺は以上のような家族観を受け継いできたと考えている。現在の家族観の基本が三世代家族でないなど、時代の荒波や社会のニューマに揉まれて様々なものを取りこぼしてしまったとしても、である。

別姓論者の家族観

 さて、しかしそのような役割の分担のために夫婦が同姓にする必要はあるのか?という疑問も出るだろう。上のロジックでは、言ってしまえばそう言った共同体を作成することが大事であり、苗字が同じかどうかは付随的な問題に過ぎないからだ。これはその通りである。事実、儒教の強い中国や韓国では夫婦別姓の「伝統」がかつて受け継がれていたようだ(ここは詳しくないので正しい知識をお持ちの方はご教授願いたい)。その意味において、俺は「別姓論反対論者」ではあるものの「同姓論賛成論者」とは言えない。苗字が果たす役割は現在かなり大きいが、それを無化できるほどの代案があるならば、俺個人としては賛成の余地があると言える。何より我ら平民は200年前には苗字が無い(諸説あり)。

 が、しかしそのためには、別姓論者の唱える家族観を確認しなければならないだろう。

  他にも多々存在するが、例えば別姓論者による上のツイートの中に、彼らの称揚する家族観を読み取ることができる。つまり、「権力の解体された、個人が尊重された皆平等な家族」という家族観である(※②)。別姓論に強固に賛成しているのが、いわゆるリベラル(ここでは戦後民主主義者程度の意味で用いる)陣営であることからもそれは窺い知ることができるだろう。これはある意味で当然である。なぜなら、「選択制」ということを別姓論者が強調する通り、この制度は「選択の自由」を金科玉条にして進められているからである。選択の自由を正当化し支えるイデオロギーが、「権力の解体された、個人が尊重された皆平等な家族」という家族観の称揚と密接につながっている、ということだ。それは言うまでもなく「自由、平等、友愛」である。

 「権力」(フーコー?)という言葉を用いて先程の俺のロジックを説明するならば、同姓を強いることによってそこに生まれてくるのは「役割分担」、「共同体意識」という権力だ。核家族を例にするならば、家族外の事を中心に活動する父親、家族内のことを中心に活動する母親、そしてその2人によって教育される子供である。姓の同化を強制する権力は、以上のような「権力の生成」に少なからぬ役割を担い得ているということが言えるだろう。そして「個人」というのは、このようにして「作られていく」ものに他ならない。

 さて、別姓論者の称揚する「権力の解体された、個人が尊重された皆平等な家族」という家族観は一見「正しい」(=PC!)家族観のように思えるが、その内実は実に空洞である。もしも上記の役割分担が存在する場合、そこには必ず「権力」が存在するからだ。家族を構成する個人は、その役割が存在する以上、例え対等であったとしても平等であるということはあり得ない。言い換えるならば、彼らの称揚する「皆平等な家族」というのは、それが何の役割を担うこともない「無」としての個人の集合である、という意味以上のものではない。そこにおいては、確かにそれぞれの個人は「尊重」され「平等」だが、それ自体が観念論の域を出るものではない。

別姓論の問題点

 「無」としての個人を称揚する家族観。別姓論によって、公的にそれがもたらされると言えるだろう(※③)。そのような家族観が問題であるから、俺は別姓論に反対であると言える。それは何故か。

 究極的には、問題点は、そのような「家族」があまりに出来の悪いフィクションであるという点だ。空間性や時間性からも切り離され、「無」として尊重される「平等」な「個人」が構成する「家族」。子供の立場一つ取ってみても、あまりにも嘘くさい世界観である。何よりも、別姓論者の根本は(男女問わず)「自らの生まれた時からの名前を絶対に変えたくない」というある種シンプルな欲望である。この欲望自体はなんら批判されるべきものではないにせよ、しかしそのような自らの名前に対するフェティシズム的欲望、そしてそのことに無自覚な別姓論者そのものが、この世界観の欺瞞を既に体現していると言えはしないか(※④)。

 さらに言うならば、そういったあらゆるフェティッシュ=役割分担=権力を破壊した(と誤認した)末の「無」としての「個人」の尊重とは、現実の人間関係において何を意味するのか。それは恐らく、自らのあらゆる欲望を肯定するように他者に強制する「わきまえない」態度にほかあるまい。「無」としての個人というフィクション性そのものが、現実の人間が「有」であるというフェティッシュ性から逃れられない以上、その亀裂において最悪の権力を吸引してしまうことにもなり得るのだ。

 例を挙げるならば、家族問題の解決に安易に国家権力を介入させようとする態度、また子供の苗字決定の際に現れる問題であると言える。前者においては、もはや家族共同体が、対等な「個人」によるゲゼルシャフト的な契約をベースとした社会と化してしまっていることの証左に他ならない。子供の生育のための共同体において「感情」が省みられないことは、それ自体が既に家族の体を成しているとは言い難いだろう。後者においては、それを民主主義的に(=話し合いで!)解決すればいいという反論も存在するであろうが、そもそも民主主義そのものが、「過剰」であるものを排除することによってのみ可能なものだ。「無」としての個人は、それ自体が既に過剰なものであるため、ここにおいて「民主主義」が機能することはあり得ない。そこで呼び出されるのは、やはりなんらかの「有」を前提にした、最悪の権力(=モラハラ、DV等)に他ならないだろう。それもやはり、「家族」の体を成しているとは到底言えない。

結論

 以上、別姓論に関する俺の小論である。まとめるならば、近代を通じて賞賛されてきた人間観(純粋個人主義?)が家族にまで適応される制度、それが現代の別姓論ということが出来よう。

 現在、大多数の人民が別姓論の賛成派でありながら、反対論が(宮崎哲弥氏の著作等があるとは言え)全く省みられないこの状況は、今この国が狂気に陥っていることの証左であると俺には感じられる。

補足

①夫婦別姓反対論者ではあるが、現在の自民党主流派にそれを言う資格はないとは思っている。政策に伝統を大事にする心意気が全く感じられないのはどういうことなのか。

②フェミニストの田嶋陽子などは、結婚制度そのものに反対なので夫婦別姓賛成ということを唱えている(以下の動画参照)。フェミニズムの目的が、「家族」「母親」というフェティッシュを破壊することであるということから見ても筋は通っているが、それはある種の革命の後のみに達成し得るものであろうから、法の改正などという改良主義的立場に甘んじている場合ではないのではないか。

③なぜ公的に、という注釈を付けたかといえば、夫婦同姓である現在でも、人民の間においてそのような家族観はある程度肯定されてしまっている節があるからだ。この意味において、「夫婦同姓でも問題は起こっているじゃないか」という別姓論者の主張は正しい。しかし、それがそのまま別姓論の導入が正しいということには全く帰結しない。それはその前提において、ただの能動的ニヒリズムに過ぎない。

④このような名前へのフェティッシュ性を前提に考えた場合、実は「新姓の創設」すらも安易に賛成してはならない。何故なら、そのようなフェティシズム的欲望の帰結として、苗字によって擬制的な身分が定まる社会の到来すらも可能性として浮かび上がるからだ。これがポリティカルコレクトネスの名の元に行われるなら尚更である。もちろんこれはあくまでとても低い確率の話に過ぎないが、そのような社会はかつての共産党独裁国家と同列のグロテスクさであろう。

追記

 補足の④についての質問があったのでこちらで解説を行う。

 名前へのフェティッシュ性を前提に考える、と言った。この時、個人を個人たらしめるものはまさに「名前」以外のものではない。

 新しい家族が新しい苗字を創設したとしよう。その時、「無」としての個人はしかしやはりなんらかの形で「有」である以上、そこには雁然と差が存在する。ここで名前のみが「有」である場合、その格差を格差たらしめるものは何か?恐らくその名前自身に他あるまい。名前によって身分的なものが再生産される可能性を考える理由である。

 しかしもちろん、可能性は低い。というよりも、そもそもそれが問題化されない可能性の方が低い。

補論 恋愛至上主義について

 別姓論に反対であるという立場は基本的に現在も変わりない。それは、俺が家族というフィクションに固辞する限りは基本的に変わりないだろう。しかし、上述の議論においてやや不足している点が存在すると感じたため、少々補論を追加しようと思った次第である。それは具体的に別姓論者の唱える家族観である。

 俺は別姓論者の家族観が「平等な家族観」になってしまっていることを論じた。これはやや不足である。なぜなら別姓論者の大部分は、そのような「難しいこと」(しかしそもそも難しいこととは何か?)を考えずに「苗字とかどうでも良くない?」「手続きが面倒くさい」「仕事において面倒くさい」など、上記論の用語で言えば「生活のレベル」で別姓論に賛成していると数々のレベルの低い反論によって判明したからである(もちろん、そのようにレベルの低くない別姓論者がいることは、フェアネス、そして自戒のためにも強調しておきたい)。もう一度言うが、そのような生活のレベルで語ることはその背後にある思想=イデオロギーを隠蔽することで初めて主張できる「正論」にすぎない。生活の基盤を成すもの自体がイデオロギー=言葉であるからだ。それではここで隠蔽されているイデオロギーとは何か。私見では、それは恋愛至上主義である。

 「苗字とかどうでもよくない?」というのはある意味その通りだろう。「どうでもよ」いならばわざわざ別姓論を導入する理由もなくなる気がするが、それはそれとして俺も肯んずるところである。しかし、その「どうでもよ」さは、つまり「同姓になりたくないが結婚はしたい者にも結婚制度を開け」という考えに基づいている。恋愛結婚が主流である現代において、その思考を支えるものは基本的に「恋愛」でしかあり得ない。言い換えるならば「愛し合う2人に負担の少ない結婚制度の配給を!」ということである。西部邁が「文化的小児病」と語った所以だろうか。

  これはほとんど「政治の芸術化」ではないのか。結婚制度とは、本来政治的な事柄であることは論を俟たない。それは、国家を成立させるための諸制度の根幹に関わっているからである。本来的に政治的な事柄を、「恋愛」といった「芸術」に属さざるを得ない関係を(無意識のうちに)前提にして語ることは、その語りが既に一種の扇動でありファシズムにほかなるまい。それは、恋愛というフィルターを通してあらゆる問題を問題ではないとプロパガンダする詐術とすら言っても良いかもしれない。

 もちろん、現行の結婚制度(夫婦同姓)もそういったものに加担する可能性はあり、そこを無視してはならないだろう。しかし結婚制度がそもそも政治的な事柄である、というある種冷めた視線を持つ必要性は、おそらく文化的なガキと化した現在の日本社会において最も重大なものではないだろうか。

 

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