ソルフェージュ

「人手が足りてるからしばらくアルバイトさんにはお休みしてもらう事になったよ。」
オープン準備中、店長がジョッキを拭きながら話しかけてきた。手元しか見ないので全く目を合わせてもらえない。
「しばらく…。いきなり言われても困ります。私だって生活があるんです!」
「そんなこと言われてもね。生活が心配なら正規雇用で探したらどうなんだい。大体いつまで地に足つかない気だい?え?とにかく来月からウチではそういうことになったから宜しくね」
言いたい事だけ伝えると持ち場へ戻った。私はテーブルの上にポツンと置いてあるジョッキを見つめる事しかできなかった。

女優を目指して10年。無数に受けたオーディションには尽く落ちている。しかし来春全国公開を控えている葛木監督の映画「桜散る」にウェイター役でようやく選ばれた。メインキャストではないが出番は多い。ひとつでも多くの作品に関わることはキャリアを積む上で大切な事だと、キャスティング会社の天沢さんから教わった。実はウェイター役も彼の推薦だ。期待してもらえるのは嬉しい。現場入り後も期待にこたえたい一心で全力を尽くした。しかしあくまで女優は夢。主な収入源は居酒屋でのアルバイトだった。今の会話はその勤務が解雇同然の状態になるという話である。

今年29。この年でのフリーターは世の中の風当たりがなかなか厳しい。立場が安定すればあんな風に言われても言い返せたかもしれないが簡単に切られる立場であると思うと見つめる事しか出来なかった。
バイト終わりの朝方4時。退勤後に携帯をチェックすると留守電が入っていた。
「私、芸能マネジメントを担当しておりますスターファインディングの吉野と申します。先日葛木監督の撮影現場での演技姿が大変印象的でございまして誠に失礼ではございますが、天沢さんよりご連絡先をお伺いし電話しました。明日また改めます。失礼致します!」
電話口の人はハキハキとした30代くらいの女性だった。
スターファインディングとは無名新人俳優を発掘して育成する大手芸能事務所だ。好待遇で引き抜かれた敏腕マネージャーが多く在籍していることでも有名で日本の役者でも限られた人だけしか所属できない。しかし所属できれば将来有名になることがほぼ確実に約束れており、業界では役者の生命保険会社のようだと言われている。しかしここまで未来があると日本中の無名俳優陣達が我先にとアピールするのでさらに狭き門だ。実際に私も応募した事があるが第一審査で見事に落選済み。
…私は体が熱くなるのを感じた。葛木監督作品の出演、大手芸能事務所の連絡…。
後日、私はスターファインディングの本社ビルの前に立っていた。夏の匂いが香る昼下がり。青空バックに立つ推定60階はあるであろう高層ビル。太陽の光に反射して窓ガラスがキラキラと歌っている。今日は吉野さんから直接話が聞ける日だ。うまくいけば有名になれるかもしれない…そんな淡い期待を抱きながら、一呼吸置いてビルの中へ入った。
「お待ちしておりました!吉野です。宜しくお願いします!」
想像通り私より少し上世代の女性で小麦肌が印象的だった。吉野さんは黒髪をひとつにまとめた髪型にネイビーのサマーニットに白のパンツ姿、足元は動きやすそうなスニーカーだ。
「天沢さんとは何人かで集まる飲み友達の一人です。その集まりではあまり仕事の話はしないのですが、珍しく期待できる人を見つけたと自慢していたんです。私もぜひお目にかかりたいと思い先日の現場にこっそりお邪魔させて頂きました。」
愛想のいい笑顔に引き込まれそうになった。私は廊下から中が見えるガラス張りの広い部屋に通された。大きな長机に吉野さんと向かい合って座った。左側にはこれまた大きな窓から東京が一望できる上に、今日は綺麗な青空が永遠に広がっている。
「監督の求める女優像をほぼ完璧に演じている姿を見て天沢さんが興奮していた理由がわかりました。弊社は責任を持って役者を育成していくのがモットーでして…」

私は今、この10年間で初めて手応えを感じている。高校卒業後両親の反対を押し切って上京。売れるまで帰らないと啖呵を切って出て行ってしまった為その後一度も実家には帰っていない。お金がなくて一日一食で生活していた時期もある。冬の寒い日にライフラインが止まって泣きながら大家さんの家のお風呂を借りたこともある。その時言われた言葉を定期的に思い出している。
『今はまだソルフェージュの段階かもしれないけどいつか夢が叶う時のために耐えて。』
『ソルフェージュ…』
当時の私はティッシュで涙を拭きながら聞き返した。
『ソルフェージュは音楽の基礎訓練のこと。有名な音楽家はみんなソルフェージュがしっかりできているのよ。だからあなたも今は辛いかもしれないけど耐えてね。何事も基礎がしっかりしている人は成功のチャンスが本物かどうか見分ける力さえもつくの。』
元々ピアノ講師だった大家さんはいつもそうやって励ましてくれた。

「今すぐに決断をというわけではありません。ですが、演技姿を拝見し、非常に可能性を感じました。私が責任を持ってお手伝いをさせて頂きます。」
吉野さんは芯の強さを感じる透き通った目で私を見た。
「いえ、決断は出ています。宜しく御願いします。」

確実にこれは大きなチャンスだ。10年分のソルフェージュを発揮する時が来たんだ。
私は胸を張って改めて吉野さんと向き合い直した。


このお話はフィクションです
実在の人物や団体などとは関係ありません。

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